<頑張っている自治体あるある>

昨日の逆バージョンです。
昨日ほどの歯切れはよくありません笑
いいことって、ちょっとつまらないかも笑

当たり前のことなんですけど、スモールステップの
冒険を始めることです。
日々の選択肢で、たわいもない選択肢の1個を
いつも選んだことがないことをする。
例えば、入ったことがないお店に入る。
頼んだことのないアイスを食べる笑。
これからでいいと思うのです。
未知を探る楽しみを覚えないと、何にも
変わらないし、動かない。
誰もが子供の時は、未知が大好きだったはずです。

頑張っている自治体というか組織というのは、
「子供に戻って遊ぶ」ようなところから始まるんだと
思うのです。

遊べない仕事場なんか、不満の塊です、たぶんw

今の時代って、そういうことなんだと思うのです。

選べない時代は、追いつくでよかったと思います。

いまからは、後ろ振り返っても、誰もいない時代
に田舎は突入しています。

だからこそ、楽しめる組織づくりを始めないと、
しんどいだけです。

しんどいことしかないところに人はそもそも
住みません。

東京に集中するのだって、東京が面白いからだし、
田舎が積まないからです。一極集中しているのは
「地方の罪」でもあります。

もっと、いい街目指しましょうよ。

自分の身の回りを面白くしましょうよ。

街づくりなんて、「n人の誰か」のために
じゃなくて、「自分のため」が起点です。

自分の幸せのお裾分けの連鎖。

これが生まれれば、いいだけです。

そういうのが生まれやすいっていうのが、
サードプレイスだし、道も住む場所も
居心地のいい場所に少しでもしていきましょう。

これが本質だと思うのです。

今や忌み嫌われてきた貨幣経済だって、
最初はそうだったんです。貨幣に善も悪も
ありませんもの。
海のものと山のものを交換するのに、便利だった
んです。交換したら嬉しかったはずです。

まずは自分が幸せになっていきましょう。
幸せをお裾分けしましょう。

そっからですよ^^

****
1.自治体の仕事が「変わった」と知っている。
「調整」の時代は終わったと理解している。
書類も戦略的に書くものと知っている。
2.「攻めの仕事」とはソフトである。
ソフトを活かすためのハードであり、
ハードを活かすためのソフトではない。
3.住人を巻き込まないと、続かないことを
知っていて、対話の重要性を知っている。
だから、やたらと飲み会が多い。。。笑
*ここはほどほどにしてほしい。
4.勝ち組にのるのでなく、特殊解を目指す。
どこでもやっていることはしない。
ここでしかできないことを目指す。
5.コンセプトやビジョンは後回し。
まずはやる。やってみせる。
やっているうちに、なんとなく出てくる。
海士町の「ないものはない」
神山町の「やったらええやん」「創造的過疎」
も後付け。
後付けを最初にもってくるのは、すでに
模倣の始まり。
6.教育政策に力が入っている。
その町が生き残る最善策が子供達だから。
7.「挑戦しようよ」と声かけるまえに、
挑戦している。
だから、1人の職員が、自分のプロジェクトを
趣味として持っている。
8.失敗がいろいろあって、失敗に慣れている。
いちいち失敗に目くじら立てる暇もない。
9.広報も議会だよりも文章にちょいちょい熱さや
感情が入る。
だって、知ってもらいたいから。
住民が知るツールだから手を抜かない。
広報冊子すら変えられない組織で
ほかのことができるのかといえば、
さもありなん。
10.議会が。。。。
これはいろいろあるな、うん。
11.外の世界を見に行かなくても、外の世界が
やってくる。
外の人たちが興味を持ってやってくる。
この人たちを「面白がせる」「感動させる」ことが
得意。
12.元気な自治体は、女性の服装が華やか。
原色使い、色使いが華やかだと、それは組織の
空気がいいからです。男の人は、仕事できても
できなくても、たいてい、普通です。。。泣
男性でオシャレ、公務員ぽくない人がいれば、
その人に聞けば、たいていわかる。
だって、トガっているから、イッチバン、いろんな
風にあたったことがあるはず^^
視察窓口にエースを置いているところは強い。
13.とにかく、ふらっといっても、ふらっと受け入れる。
うまくいっている町だと、急にいっても、嫌な顔しない。
オーバーツーリズムに負けない意思を感じる。
14.仕事の効率性を意識せざるを得ない。
だって、複数の仕事をこなさざる得ないので。
15.補助金の使い方がどっちにしてもうまい。
しかし、これは賛否両論。
というか、とにかく使えるもにはなんでも使おうと
するアグレッシブさがある。
街づくりは綺麗事ではない。生存戦略だ。
16.人にアイデア聞くより、自分のアイデアを
聞いてもらいたい職員がいる。
17.イベントより、街の「日常の魅力」を紹介する。
町に住む「人」を紹介する。
歩いて視察していると、必ず挨拶と一言
コミュニケーションが生まれる。
そう、歩いているだけで、雰囲気が作れる町は
強い。
その人自身がサードプレイスみたいな人が
街づくりの担い手にいる。
18.インバウンドの基本は、人、そしてそれを
体現しているハードと環境とわかっている。
だから、美意識が高い。
ゴミの落ちている先進地域はない。
どこも綺麗。ともすれば、景観条例がある。
19.SDGs。乗るなら今だと思っているから、
あえて「のりにくい」と思っている。
昔からやってきているところほど、SDGsを
警戒している。大事だから消耗戦にはしたくない。
20.勝手に職員がプライベートで視察にいっている。
そういう町は強い。
21.動いている職員はSNSをやっている。
それは、動くことが周りに知ってもらうこと、
応援してもらうこと、その一歩だと気づいている
から。
22.場作りを真剣に考えているエリアは、必ず
ファシリテーター(的な人も含む)がその町にいる。
研修だけで対話がうまくいかないのをよく
知っている。
23.攻めの部門に「攻めの人」「見守れる人」が
配属されている。
特に大事なのは、「見守りのできる上司」。
これがいないと、はじまらない。
ただし、見守れる上司は、もと「攻めの人」
である。
街づくりは、「守り」も大事。
攻め一方の街づくりはいずれ疲れる。
リーダー、フォロワー、そして繋げるコネクターの
3つがそろって、ようやく、動けなかった人も
「そわそわ・ワクワクし始める」。
24.アクの強い人の「居場所」がある。
25.「やったらいいじゃん」の文化がある。
応援する文化を持っている。
26.同じ面子といつもいない。
27.批判する人より、動く人がえらい。
28.いちいちミスにこだわる暇がない。
誰もが動き出すと、ミスは誰にも起こりうるから
優しくなれる。
29.地域おこし協力隊の使い方に、哲学がある。
良し悪しをわかったうえで、限界を知った上で、
やってもらう。管理しようとか、仕事の肩代わり
なんてことは考えていない。
30.移住者起業が8割、地元が2割。
これぐらいが実感値としてちょうどいい。
地元住民の起業もなにかと応援している。
31.ふるさと納税の活用が意外と下手。
街づくりの先進地域で、ふるさと納税のうまい
ところは意外と少ない。
そもそも、ふるさと納税に使える商品群が少ない
からこその危機感で動けている。
もっというならば、「そこじゃない」気が
している(かも)。
32.関係人口の作り方の良さも悪さも知っている。
関係人口のオーバーツーリズム現象を知らないと
とんでもなく消耗してしまいます。

もっとでてきそうだ。。笑
皆さんもぜひサポートください^^

<落ちぶれてゆく自治体あるある>

色々とみてきて思うこと。
*こりゃうちのことだと半分以上に該当すると
まずいという感じです。
「違和感」感じてもらえると頑張っている自治体
なので嬉しいです。
*2019年10月3日に書いたFBの記事を転載しています。

 

1.消滅可能性の高いのがわかっても、
「攻めの政策」に切り替えられない。
「調整」を仕事だと思い始めたら、それは
今の時代、相当出遅れている。
2.「攻め」とはハードであると今も思っている。
3.何にもやらないは、後退。
対話で誤魔化すのは、対話を舐めてる。
実行のための対話で、言い訳のための対話ではない。
4.勝ち組にしか乗れない。
地位と名誉と東京に弱い。
強い自治体は、地位と名誉、
東京を振り向かせる。
5.コンセプトやビジョンは、やったことのある
人しか作れない。
やったことのない人のビジョンやコンセプトは、
いつでも交換可能。
6.首長と部長・課長の性格は、政策に反映される。
政策見れば、逆にわかる。
教育政策に力をいれていないところは
間違いなく落ちていく。
だって、未来に興味がないから。
消滅すると思っているから。
7.「挑戦しようよ」と声かけている人の挑戦した
姿をみたことがない。
8.失敗をした人の「その後」を見よう。
それがその自治体の本音と文化だ。
9.広報と議会だよりを3年分見れば、やる気はわかる。
3年見て同じならば、それは後退です。
10.議会が、重箱の隅を突くのが仕事だと
思っている。
11.全然外の世界を見ようとしない管理職が
7割超えたら、それは不幸の始まり。
挑戦者を理解できない組織での対話と多数決は、
自ずと結果が見えている。
12.元気な自治体は、女性の服装が華やか。
その逆は、人前にでることも、来ることも少ない
ところである。
13.有名な人が来ると「ざわざわ」するが、普通の人が
来てもチラリで終わり。興味がない。
14.仕事を減らすとは、生産性の向上・効率化でなく、
新しいことをしないこと。馬耳東風が美学。
15.自治体にとってリスクのない国からの補助金を
リスクマネーと思っている。
だから、勝ち馬に乗るしかできない。
ゴールがわかりやすいハードになりやすい。
いやいや、ノーリスクだから笑
16.人にアイデア聞くな、それもあなたの仕事です。
17.イベントは誘い水。イベントばかりで消耗するのは
日常の魅力に自信がないから。
18.インバウンドといいながら、コンクリで山を川を
埋めていく。いや、公共工事こそ、インバウンド
の発想ですよ。
19.SDGs。乗るなら今だと思っている。。
そもそもSDGsじゃないぞ、その発想は。
20.本当に解決したいから視察にいくわけでない。
本気の視察は、個人で行く。
21.営業のできない公務員は、思いがないのと同じ。
語れる思いがあれば、必ず誰かは動き出す。
22.挑戦したことがないファシリテーターの対話
の場からは挑戦は出てこない。
23.攻めの部門に「守備の人」が管理職になっていたら、
それは人事の失敗。そして、それは首長の性格。
守りは管理できても、攻めは管理できない。
24.「いい人」は「罪深い」。
挑戦している人は必ず「好き嫌いが別れる人」で
ある。好き嫌い別れている人を使いこなせない
のは、「何にもしない人を重用する」と同意語
である。
25.「やったらいいじゃん」よりも、できない理由
はすぐに出る。
「なんにもない」から、誰もできない。誰にも
罪はない。だから、何にもしないことに罪悪感は
当然ない。
26.同じ面子といつもいる。
27.提案よりも批判ができる人の方が実力あると
思いがち。
28.「ノーミス至上主義」「ミス外道」です。
29.税金、補助金は自分たちの金。
地域おこし協力隊に「税金で雇っているから
しっかりしろ」と叱咤激励。。
いやいや、その税金は、外からのお金です。
移住した隊員に全ての責務を負わせるのは
酷ですよ。
30.地元の起業がゼロ。
移住者起業が100%はのちのち危ない。
31.ふるさと納税が街づくりに直結していると
勘違いする。どう使うのからが本勝負。
32.出張の多い職員に「遊びによくいってるなあ」
と冗談ぽくいうが、実は7割ぐらい本気でそう
思っている。
33.目立つ職員が出てくると、思わず、人事異動
させてしまう。

もっとでてきそうだ。。笑
皆さんもぜひ加筆ください^^

<7月4日笑いヨガの祭典@大阪中央公会堂にて講演しました>

笑いヨガの祭典@大阪

7月4日に、インド発祥の笑いヨガ(ラフターヨガ)を学ばれているかたが

創設者ドクターマダン・カタリアご夫妻はじめとして集結し、3日間学ぶという

プログラムイベントにて、講演をさせていただきました。

講演内容は、いつもの街づくりのお話でしたが、笑うというコミュニケーションが

世界共通言語であり、異なるものを結びつけるための言葉であるというお話や

街づくりの潮流である「居心地のいい場所を作っていく」という営みも、そういった

場作りの延長線上にあるものであるとしゃべらさせていただきました。

本当に楽しい、喋りやすい空間で、マダン・カタリア夫妻はじめ、たまたま来られていた

落語家ダイアン吉日さんともお会いでき、色々なお話を聞くことができました。

今回お招きいただいた笑いヨガマスターである森岡美智さんには感謝申し上げます。

 

<我らはみんな病んでいる(2)〜街づくりのココロ学〜>

 

 

(1)では、「東京からみた地方創生」の必要性(=ストレス回避)でした。

 
 街づくりで起きている現象を、心療アプローチでみていくと、最近トレンドになっていた関係人口論は、東京の人々には効くワードで、主としての東京と心療場所としての田舎・地方の関係を築くと。ストレスも軽減されるし、地方のお役にも立てるよという、防衛機制で言うところの合理化と代償なども同時におこなえるようなものでもあったわけです。
 *防衛機制でググってください。

 受け入れ側の地方も田舎も、その心療的側面を理解してか、心療的アプローチが取りやすいように、心の安全を保証し、疑似家族的に触れ合うことで、関係性を気づいていく移住政策が多く行われているように思います。

***

 ここからが課題で、病んでいるならば、完治されると田舎に来なくなるので、都会に住みつつ、田舎に心療に来ると言う関係性は、ある意味共依存関係にいたほうが互いに望ましいと思うようになります。ゆるい関係性がいいわけです。

 けれども、地方や田舎は、移住してもらわないと困るし、国はもうお金がないので、再分配に限界があるとみている。官僚も首都圏出身者が多く、地方や田舎の基礎経験も考えもあんまりない。合理的に考えれば、切り捨ててもしょうがないエリアに見えてくる。

 そのような微妙な関係性の結果、首都圏から田舎に移住してきた人は、病から脱する可能性が高いので、より自分にあった場所に移動していきます。ですので、「長くはいない(移住はするが定住はしない)」という現象がおこりうるわけです。
 *結婚とか農業などの、定住する理由がないかぎり。
  

 となると、田舎や地方は、心療的アプローチの”次の魅力”を作る必要性があるわけです。

 では、田舎側の地方創生の起点はどこにあるかといえば、「作られた死の恐怖」であり、「作られた負い目」です。

 あらゆる統計や情報によって、「田舎はなくなります」という死の宣告を受け続けています。そして、過剰に再分配されたインフラ設備(小さな町にも道路、橋、学校、病院など)が維持できなくなり(国からの再分配量が減ってきて、そもそもの経済力よりも過剰なインフラがあるから、マイナス経済にあることが問題化された)、「経済的自立」を求められるようになりました。

 これまでの右肩上がりの経済では問題でなかった「再分配と言う名の投資」が、経済的リターンを生まないために、「負債」となってきていることが、より鮮明になったからです。

 これらのことで、我々田舎に住む人間は、ある意味、幸福であるものの、「余命宣告」と「稼げない負い目」があるもので、どうにかして、この余命宣告と負い目を感じないように努力しているというのが現況ではないかと思うのです。
*ふるさとを守ると言う意味での地方創生はいったんおいておきます。

 
 そうなると、一部の、自然資源で食べることができたエリア(観光や食料資源によるモノカルチャー経済)などをのぞき、もともと土地が狭いために大量生産に向かず、「特徴がない、素朴で美しい自然」にあふれた「なんにもない」ところで、生きる意味を模索し始め、生き残るための”理由”を作らざるをえないわけです。
*ふるさとを守ると言うのは、そこで生まれたから自明的な理由であり、他者たる都市の人には、そこを残す理由がわからないし、通用しないロジックになります。

 つまり、地方創生そのものが田舎に住む人にとっては”作られた課題”であるわけです。おかしな表現かもしれませんが、人口を維持したり、魅力を作ると言うのは、実際に人口が多い都市のようにしていくこと(都市化)を目指すことなのですが、田舎であり都市であるという、相矛盾する答えというのは、正直、かなり難度の高い要求です。”田舎の目指す都市化”というのが考えなければならない命題でもあります。
 *地方都市はまだまだ稼ぐ余地があるので、努力できる部分はあると思います。

 
 整理すると、東京などの大都市部に住む人にとっては、心療的動機があり、田舎に住む人にとっては、「作られた課題」であり、地方都市は、「都市としてもっとがんばってくれ」というのが実際のところだと思うのです。

 ですので、街づくりの先進地域が該当するような離島や中山間地域などの経済的閉鎖系の場所=よっぽど危機感のあるところならいざ知らず、普通の田舎や地方都市にすれば、地方創生とは「与えられた宿題」みたいなもので、今ひとつ「性根に入らない課題」になっている気もするのです。

 そして、もっと悩ましいのは、街づくりの整理がうまくできず、心療的アプローチの意味もわかりきれず、経済的自立だけをKPIにしちゃうと、目先のハード整備にいってしまい、「そもそも、そういうハードが重たくなっているのに、わかりやすい魅力づくりのために、また作ってしまう」という悪循環を引き起こしているのも、各地方の現状だと思います。

 そもそも、街づくりの目的や意図が整理できていない。なんのためにやるのかが曖昧なまま、単年度ごとにあるいは3年以内に成果をださないといけない補助金の性格上、あせって愚策をひねり出すという悪循環にも陥りかねないわけです。

 そう、何かしら”焦っている”のです。

 このあたりの解決方法として、心療かつ魅力づくりの二重構造を組み込んだシステムが、徳島県神山町が作り上げた「サテライトオフィス」という仕組みです。つまり、都会の仕事を田舎でやることで、都会の仕事の苦しみは田舎の持つ心療効果で緩和され、田舎でも東京での仕事がやれることで、それぞれの課題を克服する仕組みになっているわけです。
 *サテライトオフィスができればできるほど、近隣で同じ条件を持つ場所が有利になってくるので、神山のように文化を起点にして魅力づくりに腐心する必要性がありますので、万能薬ではありません。

 また、東京それ自身でも、喫茶ランドリーのような「都市の田舎化(サードプレイス)」ができることで、東京の中でも心療的アプローチと解釈しうるものが少しづつできつつあります。つまり、東京は東京でやれるべきことがたくさんあるということですし、その余白もあります。

 では、これ以外に、いや次になにをすればいいのでしょうか。

 これまで私が述べてきたサードプレイス論や身の丈起業家育成などはどのように位置付けられるのでしょうか。

 いや、そもそも、病んでいるのでなく、分裂しているほうが、現代の生き方ではないのか、という哲学や心療系学問からの示唆もあります。

 
 ここから先は6月以降に全国行脚するまでにまとめますー
 ^^

 また、どんどんお呼びください。

 そして、また政策の整理と実施に向けて、各自治体さん呼んでくださいね、と仕事のアピール^^がっちりやりたいのです^^
 

<続く>

<我らはみんな病んでいる(1)〜街づくりのココロ学〜>


 ここ1年、ずっと考えているのが、「我々は病んでいる」ということです。
*1970~80年代にはすでに指摘されていることですが、街づくりの文脈では語られたことがない。

 私たちはみんな”同じルール”(貨幣経済・組織などなど)で「生産性をあげなければならない世界」に生きています。

 生産性をあげるためには、より合理的に、誰もが納得するように、そして効率よく、無駄をなくす。つまり、余白をどんどん消していき、精度を高めていくことが必要とされます。

 
 考えるべきことは、効率をあげ、無駄を減らすこと。コストカットが大事なスキルとして、重宝される世界です。1分かかる仕事を30秒でできれば生産性は2倍に。給与が同じならば、その分、商品の値段を安くすることができる。また、大量生産すればするほど、維持コストは安くなる。

 このゲームの勝利者は、つねに、フル回転し、生産性の高い生き方を要求され、結果を出す人々なのです。

 しかし、そのおかげで、私たちは、いろんな「もの・サービス」を手に入れました。

 過去の歴史をひもとけば、あらゆる階層の人が、かつての貴族並みの生活を送るだけのインフラがあります。いつでもどこでもコンビニに行けば食料は手に入る。いつでもどこでも、ネットで買い物ができる。生存を脅かすようなものは年々減っている。

 モノとサービスにおいては、「目指してきた社会」に到達し、いちおう何かしら新しいものを作らねばならないという「歴史は終わった」かにも見えるのです。

 いま、繰り返し繰り返し要求されている創造性も、実際、ほんとうに必要なものやサービスを生み出しているのかといえば、”過剰な創造性”ではないだろうか、と思います。

 毎月のように登場してくる新商品のラーメンやお菓子などなど。車だってすでに「そこまで欲しくはない」のに、新しいモデルが出て、需要喚起をさせられている。”欲しくもないのに飢えていると思わされている”のではないでしょうか?

 だから、”過剰な創造性”を発揮し、”過剰な生産性”を要求され、過剰に働くことを求められる社会で、人口減少していき、労働生産人口が減っていく社会では、「引退がない」し、日々ループされる「仕事の世界」から解放されない。逃げるためには、”ループの外”に出るしかないのです。

 
 しかしながら、この”ループの外に出よう”という動きも、”一時的なもの”なのか、”引退して外にでるのか”。もしくは、”違うルールのループに入る”ことなのか。まるで異なりますが、それはともかく、”外に出よう”としているのは間違いないことだと思うのです。

 この外に出ようという動きが、ボクが関わっている地方創生の”心的実態”ではないかと思っています。

 東京での”本業”を持ちながら、違う仕事、地方での仕事を持とうとする「複業」の動き。*副業ではないのです。

 東京と、贈与やシェア経済が文化となっている田舎へ経済拠点を持とうとする「多拠点」の動き。
 *田舎の人は多拠点とは言わないし、東京の人は東京内多拠点を目指してもいない。

「勝ち続けるか、やり続けるか」「引退のない世界をどういきるのか?」

 東京の暮らしや、仕事や消費の面白さを残しつつ(肉体的実体)、それとは異なる世界の田舎を組み合わせる(精神的実体)こと。

 言い換えると、異なる複数の世界に、自らを分裂させることで、心の健康を保とうとする動きではないのか、と思うのです。
 *東京生まれ東京育ちの人は、また異なる感情があるよ
  うに思います。

 ここに欲望の原点があるとするならば、「経済的自立をしていない田舎・地方を経済的に元気にする」と言うアプローチは、そもそも異なるように思います。というのも、都市と同じルールに切り替えていけばいくほど、田舎に住む、移住する動機は低減していくからです。

 となると、地方創生の目的が人口維持ないしは、移住促進であるならば、起点は”心療”であり、その副作用として経済的に自立していく方向にいくべきで、逆のアプローチではないと言うことです。

 また、合理的で効率的なものを好む”都市世界”は、一見すると複雑系な世界に見えますが、貨幣経済でいえば、よりシンプルなルールで構成されている世界です。シンプルであればあるほど、強者と敗者はわかりやすく、ランキングを出しやすい世界ではないかと思うのです。

 では、田舎が目指すべきは、何かと言えば、”シンプルすぎない世界”を目指すべきだと思っています。

 このあたりの、地方創生における”心的世界アプローチ”をこれから紐解いていこうと思っています。

(続く)

<街づくりの生と死を考える>


 今年に入って、防災の哲学を考えている。

 基本、防災は災いを防ぐという思考なので、災いのポジティブなところは考えないし、考えると、言霊思考が現役なので、不吉過ぎて喋れない。本当のことでも不吉なことは、言霊にしてはいけない。だから、非常時のことはいっさい考えない。そして、非常時の話は、ぶっちゃけた話、「問題がでか過ぎて、いや、問題解決が無理すぎて、喋れば喋るほど意欲が失う」可能性すらあるから、余計に「表にでてこない」。

 となれば、歴史に立ち返ってみて、客観的にみてみるしか方法がない。

 奈良時代には、災いがあると遷都を行なった。つまり、街ごと移動するし、風水なども含めた計画都市だったし、仏教による宗教都市的な意味合いも多分に重ね合わせていた。

 わざわいあれば(ハレとケ思想)、逃げるという選択肢があったことを物語っている。

 幕府を置くという文化になっても、京都は首都であり、宗教都市でありつづけたし、幕府の置かれた場所は政策都市であり、都市の性格も多重になっていた。また幕府が作った都市は、鎌倉のように防衛都市でもあったし、宿場町、門前町と、いろいろな性格をもった街や都市がいくつもあったように見える。

 また、江戸の大火による、街づくりのリセット機能は、ある意味、経済循環を引き起こしていた。そのことで、街づくりが定期的に考えるきっかけになったし、そもそも土地の私的所有が少なかったことも大きな影響だとは思う。

 こう考えていくと、防災から逃げるという手段をとった時代もあるし、複数の街をもつことで、どちらかがダメになっても肩代わりできそうな多様性もあったし、防災をメリットに活用してきた、不撓不屈の歴史もあるわけです。

 そのなかで、きちんと議論されてこなかったのが、街はずっと続くものなのか、死にゆくこともあるのかです。

 中東などをみていると、砂漠化によって亡くなった古代都市などもありますし、シルクロードの町々のように、経済的な関わりが薄くなって、縮減した街もたくさんあります。

 つまり、歴史で紐解くと、意外と街にも生死があるということです。

 江戸末期3000万人の人口規模から現代の1.2億人まで、3倍に増えたということは、新しく作られた街が多く、歴史も誰かが住んでいたというならそれなりに歴史はあると思うのですが、現在のようなサイズ感の街になったのは、100年以下の歴史かなと思うのです。

 そうなると、人口減少を考えるに、その人口規模に応じた「街のサイズ感」というのがありうるし、いま起きつつあるコンパクトシティ化による中山間地域や離島の無人化は、ある意味、避けて通れないようにも思えます。

 言い換えると、この人口減少そのものをどのように防災するのか。また防災だけでなく、活かすためにはどうすればよいのか。せっかく土地が余るフェーズにうつっているので、どのような街を山岳都市として形成するのかとか、離島都市論みたいなことが議論されてもいいと思うのですが、そこまで議論が進んではいません。

 そういったなかで、僕が着目してきたのは、人工的に作られた宗教コミュニティや理念コミュニティです。いまのところ、宗教コミュニティは古代からあるし(京都やエルサレムなど)一番長く都市として定着しているパターン。しかし、宗教に近いはずの理念コミュニティは新陳代謝が激しく第三世代までうまく維持し得ない(キブツやヤマギシなど)など、興味深いことが多いのです。

 その中で、日本で新興勢力でできた宗教都市として、唯一と言ってもいいぐらい成功しているのが江戸末期から明治にかけて広がった天理教の街「天理市」です。

 ここ数年、街づくり論として天理市のユニークさをおっかけようとしてますが、なかなか手が届かず。

 今度天理市にも言って、街づくりの生死論を考えつつ、平時の防災、非常時の防災論を考えてみたいと思います。

<続く>

「幸福の系譜学」(3)

<「幸福の系譜学」(3)>

+++++++++
日常を祭り化する
+++++++++
 祭りが一つの幸福装置だということはわかりましたが、やはり資本主義というのはより便利にや快楽提供を本質としているので、1年に1回なんていうのは野暮な話で、やはり日常そのものを幸福装置に変えたいわけです。

 すると、”日常の祭り化”が始まります。それも都市であればあるほど人が多いのでそうなりやすい。
 
 ショッピングモールは非現実的な買い物が心地よくできる空間になるし、施設も非現実的にオシャレになっていく。居心地のいい空間というよりも、刺激を与える空間に作り上げていくわけです。インスタ映えなんてのもそれで、これまでになかった盛り方や見せ方が、好まれるのはそういった根源的背景があるからです。
 
 日常を祭り化することで、人は幸福になる。けれども、日常を祭りで侵食すればするほど、その効果は低減してく。ぶっちゃけた話、飽きてくるし、刺激にならないわけで、刺激の麻痺化=幸福の停滞につながっていくわけです。人は「慣れ」るように作られているので(いつも不安定だと不安になりやすいので)、これはどうしようもない帰結なんですね。

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旅は、人を幸福にする
(越境=異文化体験)
+++++++++++

 そこで、我々が古来より幸福装置として馴染んできたのが、旅(越境)です。旅に行くと、文化フレームが異なるので、すべての日常が刺激されます。言葉も違う、食べ物も違う、生活そのものが違う。そして旅する人を受け入れるのも、同じように。

 だから、人は移動していくわけです。

 また、新たな学びを越境して行うのも同じです。修練すると慣れが発生しやすいけれども、まったく異なる仕組みの学びをすると、また新たな刺激に包まれます。いつも図書館に通う人がダンスを覚えたり、ランニングをしたり、大会にでたり。体を動かすとドーパミンが出るので、刺激がますわけです。

+++++++++
恋愛をやめる理由
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 ここで日常の祭り化が進んだ都市部で恋愛が減るのはなぜか、出生率が減るのはなぜか、田舎で出生率が高いのはなぜか。これにも理由があります。
 それは日常が祭り化すると、恋愛以外にもたくさんの刺激があり、恋愛ジェットコースターはすぐに不幸にも転ぶし、好きな時に欲望を満たすということが難しいし、外から見ていると、「好き→コミュニケーション→どたばた→終わり」というプロセスの繰り返しに見えるので、ほかのものに変更可能にもなっているのではないかと思うのです。終わらずに結婚を選んだとしても、また好きな時に恋愛してというのが自由にできないため、それならば、やっぱりともなりやすいのです。だから、都市部では、恋愛はそれほど希少価値の高いもの出なくなりやすいし、田舎では、逆に、恋愛ほど、刺激を与えてくれるものはないので、そこに行き着きやすいわけでもあります。

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現代の幸福の仕組みは?
++++++++++++
 
 現代の都市は、まさに幸福装置であふれています。

 幸福装置に溢れると、幸福でなくなるという矛盾にも晒されています。そして、街が科学で作られれば作られるほど、非日常(虚構)になるわけで(虚構世界のディズニーランドや遊園地が強いわけ)、虚構であるがゆえに自然を隠していくため、災害にはもろい体質をもってしまいます。

 その虚構剥奪体験が、阪神大震災であり、東日本大震災でした。

 我々の街づくりは、幸福を目指して、行ってきたものの、幸福装置ばかりになると麻痺し、また虚構度を上げていかざるを得なくなる体質に陥ります。完全を目指して、止めようもない成長に突き動かされます。
 
 絶対も完全もないにも関わらず、我々はやめることができない幸福装置に囲まれています。

 では、その答えを我々田舎が有しているのでしょうか? 

++++++++++++++
”成長民族”(都市住人)と
”日常民族”(いなか住人)のハザマを行き来して
+++++++++++++++++++++++

成長を是とする成長民族たる都市の住人と、日常のメモリを小さくすることで豊かさを得た田舎の住人。

 日常のメモリでは満足し得ない田舎の住人は、都市に流入していくし、成長を是とする幸福装置に疲れてしまった都市の住人が田舎へ流出していく。

 しかし、そもそも成長を志向していた人々が田舎の成長メモリに満たされることはないし、成長民族のいうような刺激溢れる里山を思考はしていないなかで、流入と流出はどうしてもアンバランスなものにならざるを得ません。

 また、田舎とて、成長メモリを小さくした分、何よりも刺激になるのは、人間関係になります。だから、互いのことがきになるし、自分たちより成長している人を見ると、メモリを大きくしようとしているので(自分たちが成長していないことがバレてしまう、いちおう成長はいいものとして理解されてはいるので)、自分たちと同じ成長メモリに戻そうとします。メモリが狂ってしまうと、田舎の幸福装置がうまく機能しなくなくなるからです。(いわゆる世間の論理、)

 とはいえ、田舎も都市化を余儀なくされますが、高度経済成長期のような日本列島改造論(田中角栄)が終わったものの、日本のように財源がないなかでは、その都市化にも限界があるし、そもそも、幸福装置の根源的な問題は解決されていません。

 そのなかで、田舎に来た都市住人、とくに新たな成長原理を求めてきた人には田舎はあまりにも成長する部分が限定的であり、自然と向き合うことでの成長原理を伸ばさざるを得ません(田舎に唯一ある、都会にないもの)

 つまり、田舎にとっての成長原理を作らなければならないし(それすらも怪しいですが)、それがまた都市が陥るような幸福装置と同じであっても結論は同じになってしまうし。

 では、次の展開として、何があるのか?

 その答えは、また講演で笑 まだきちんとできてないだけともいう笑

<終わり>

「幸福の系譜学」(2)

<「幸福の系譜学」(2)>
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宗教と科学の分裂〜ダーウィンの登場〜
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 現在の私たちの考え、つまり宗教よりも科学を絶対の起点にしていこうとする考えは、まさにダーウィンが決定打を与えたものと言っていいと思います。
 「人は猿と同じ先祖をもつ」って、まさにタブーじゃないですか。神そのものの証明をしてきたのに、いきなり神の設計(旧約聖書、新約聖書)とは異なる、神が七日で作ったわけでも、なんでもなく、すべての生物が、それぞれの進化によって成り立っていると。
 イスラムだって同じルーツなので、仏教はその点、人として仏になるアプローチなのでいいですが、神の設計だと思ってきたことが、実は単なる偶然の産物(たまたま生き残ってきたから、たまたま論理的に仕組みができてきた)という、強烈な現実を突きつけたわけです。

 ここで、宗教と科学は分裂を方向に歩み始めます。が、とはいえ、科学は不幸を説明できたとしても、なんにも人を癒さないため笑、結局人は、宗教と科学をともに愛していくことを選んできた20世紀以降だったのですね。

 しかし、結局のところ、宗教以上に絶対的に不幸の理由を説明できるものはなく、また科学以上に信じられそうもないし、このようなどっちつかずの状態に我々が置かれてきたのですが、最初に戻ると、我々の本来の動機は、不幸の源である「絶対」への動機(これがわかれば、不幸になっても理解できるので、解決方法が考えられ、幸せにもっていける)は変わらずもっているということです。

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 絶対への願望
++++++++++
 
 このように紐解いていくと、幸福というのは、その幸不幸を生み出す源の「絶対」がキーになっているというのがわかります。

 つまり、「不幸は、絶対でないから生まれる」わけです。幸福になるためには、絶対に出会わなければならないのです。

 言い換えると、人は不完全ゆえに不幸になるのであり、絶対が導いてくれる方向に「完全になろうとすることを求めるのが、幸せ」という式が導かれます。

 このことはつまり、完全になろうとする「成長」「進化」ということが、我々が幸福になるのに必要なモチベーションだということです。成長すると、我々は完全(絶対)に少しずつ近づくので、幸せを感じやすいわけです。意外な組み合わせだと思いませんか。
 
 もっとわかりやすくというと、仕事ができなくてつらいなら、仕事ができたらつらくない。スポーツで勝てないのは、上手じゃないから。モテないのは、美しくないから。嫌われるのは、よくない性格だから。。。。

 そう、だから、成長しようとするし、成長すれば新たな課題が生まれて、また不幸を感じるけれども、前の不幸とはおさらばできるわけです。
 
 こういった成長が幸福を作るという心理は、宗教とくっつくことで、「この世での成長」が「あの世への切符」につながるという信仰と結びついたり、この世での成長が財になり、寄付をすればするほど、「あの世に近づける」(浄財)ようになっていくわけです。
 *まさに、マックスウェーバーがいったロジックです。

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 成長レースに乗っかるのもキツイ
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 ずーーーと成長するって、やっぱりキツイじゃないですか。不労リターンで、やっぱり楽したいし、努力による信用資産たくさんもつのも、日頃の欲を満たせないので、辛すぎると。そんな修行みたいな生き方できねーーという人が選んだ戦略は、「成長をやめる」でした。

 では「成長をやめる」場合、何で幸福を感じるのでしょう。
「ひとの歴史」では2つの方法を実践してきました。

 一つは「成長の測定メモリを小さくする」(ご飯を食べて幸せとか、お風呂に入ると幸せのような)=時間を遅くさせるというやり方です。意外と平凡な生き方がすばらしいというのは、幸福のメモリをちょっと小さくしてみたら、という発想です。確かに、測定メモリを細かくみていくと、意外と幸せなんですよね。別にそんな大層なこと目指さなくても、ビール一杯でもフワーートしますし、大きなお風呂や景色のいいところを見たら、やっぱり幸せになれますし。幸せを感じる”物差し”をいじる楽しみを覚えたわけです。

 こういった物差しがめくるめく変わる日常って、みなさん見に覚えありますよね。

 そう「恋愛」です。

 メールが来るこないで一喜一憂。ご飯を食べる場所で一喜一憂。二人の世界ではまさに幸不幸のジェットコースターで、周りから見ればなんの杞憂もない笑

 これってまさに幸せ生産装置ですよね笑

 そう我々は昔から、恋愛をもっとも身近な幸福を生み出すもの、不幸を生み出すものとして愛してきたわけです。だって、恋愛によって感じる自分の感情はある意味で絶対ですから^^
*これがデカルトのいう「我思うゆえに我あり」なんですけど。
*あと、このあと無意識の発見があって、さらに無意識が意識に先行することがわかって、これまた絶対でないことが科学によってわかったのも皮肉なことですが。

 とはいっても、やはり、飽きちゃうわけです笑 異性間では、恋愛のピーク到達度が異なるし、測定メモリがちっちゃいので。”どかーん”とめくるめく快感に浸るようなのもほしいわけです。そこでデートという刺激や、もっと刺激が生まれ、かつ自分で幸福を生み出した手応えってやっぱり望むことをやめられないわけです。

 それがもう一つである「幸福の日を作る」(祭りです。この日だけ、不幸のもとになるルールを取っ払うことができる)というものです。 
 
 祭り(幸福の日)って、よくできているんですよね。

 基本的に、太陽と月と神、それと種まきと収穫、これが基本ベースで日が決まるんですね。だから、祭りをやると「絶対たる太陽も月も神も喜ぶ」、私たちも喜ぶ。ルールを決める神が喜ぶなら、その日は無礼講なんですよね。そして、種まきは豊穣への祈りであるし、収穫祭は、豊穣への感謝。まさに、不安だったものが満たされる日が祭りなんです。

 つまり、私たちは、成長メモリを小さくしたり、大きくしたり、幸不幸の源泉である「絶対」と一つになる祭りなどを通じて、幸福を生み出そうとしてきたわけです。そして、祭りの作り手が自分自身であり、地域の住み人であり、祭りを形成していく中で、仲間との一体感、神への一体感を感じることで幸せの絶頂に導かれるわけです。

 こういった幸福の起源をみていくと、私たちがいま、やっていることは自然と見えてくるのです。
 
<続く>

「幸福の系譜学」(1)

<「幸福の系譜学」(1)>

+++++
なんとなく「壁」が気になっています。
++++++++++++++++++
 仕事をしていると、多分にいろいろな「壁」に当たる。全ての生みの親は「ひと」。そして、仕事の喜びもおおよそ「ひと」(力量のある人やメディア、あるいは最も近しい人に褒められないと喜びも小さい)。

 ということは、「ひとの歴史」を振り返れば、けっこういろんなことがわかるんじゃないのって思いまして笑
 おおよその問題はケースとしてほぼあっただろうし、技術の速度は異常だけれども、ひとの成長速度はそれほど変わらないのではないかと思うと、たぶん役に立つよねという仮説で、ちょいと進めていきます。

*別のことを書こうとして、いきなり違う話になっていきますけど、ご容赦を(笑 最初のタイトルは、「”ひら”の思想”かん”の思想」でした笑

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スタート地点の問いに戻る
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 人生を振り返ると、いやあ、いいことも悪いこともあります。
「人生楽ありゃ苦もあるさ」と水戸黄門のオープニング曲とおんなじです。けれども、呑気な話でなくて、絶対不幸みたいなものもあるじゃないですか。例えば、最近の事件でもあるような「誰でも良かった理由の通り魔」などの「自分でなくてもいいはずなのに、自分だった」ことなどです。病気だって、健康そのものに人がいきなりだったり、そういった、「なんで私が不幸にならないかんの?」「たまたま私なん?」みたいな運の悪い不幸というのが、僕自身はもっともキツイ不幸の一つではないかと思うのです。
 こういった運の悪い不幸というのは、ほんとうに運が悪かったのか。自分にも何かしら責任があるのではないかという、理由探しを我々は衝動的にやってしまいます。何かしら理由がないと落ち着かないのですね。
 たぶん、大昔の人にとっても、運の悪い不幸のような「不条理なこと」は消化しきれなかったと思うんですね。(不幸の源泉)。いい人だろうが悪い人だろうが、災害がくればみんな苦しむし、悪人の下で働くことや、無残に病気で死ぬこともあったと思うし。
 「ねんでうちやねん」「どうして私のこどもなん?」、数々の不幸はあったはずでして。

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不幸に理由を求める私たち
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 では、どうやったら、どうすれば心が落ち着くのか、前向きになれるのかと考えたときに、たった1つのことに行き着くんですね。
 それは、「なぜそれが起きるのか」が分かる時=解決方法を与えてくれるものですね。
 例えば、宇宙の真理だ(そういうもの)、神が決めたという絶対的理由があれば、それはしょうがないものとして落ち着きます。もう、絶対の存在ですから。

 けれども、宇宙の真理も神もそれを証明する方法がない。言い換えると、信じるしかない。

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不幸をかき消す絶対への願望
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 そうなると、我々はまた落ち着かなくなりますよね。
 振り出しに戻る分けですから。これいちばん、しんどいんです。せっかく考えたのに、やっぱりそこかいって笑

 だから、ここで「あの世」が登場するんです。
 宇宙の真理や神以外で絶対のものって、身近なことですが、「人間は全て死ぬ」というのは、証明されている数少ない絶対。

 また、毎朝出てくる太陽、毎晩出てくる月や星々は絶対的に存在する、圧倒的なもので、これも絶対だろうと。太陽や月の変化で季節が変わるのなら、天体こそ我々を動かしている存在だと。

 そう考えた古代人は「死んだあとの世界」(宗教)と「太陽と月」(占星術)に、運命の起点を求めてきたわけです。

 こう考えると、太陽や月の信仰や「あの世」が登場し、「あの世」での暮らしは、「この世とは異なる仕組み」でできているはず。さらに、神といった世界の創造主が設計しているのだから、絶対かつ間違いのない世界だ。だから、この世の苦しみは、完璧な神が運営する世界「あの世」で全て報われるはずだ。これが「この世の不条理 あの世の理想郷」の構図になるわけです。

 こうやって、ひとは幸福の起点を「あの世」に持っていき、宗教が長く幸福の起点をになってきたわけですけれども、やっぱり、「あの世」はわからんわけです。そこでプラトンが「あの世」研究していくわけなんですが、その後、アリストテレスにあっさり否定されてしまいますし、中世神学の世界(スコラ哲学)も、ずーっと、そういった証明に費やされてきた時代が長かったのです。
 そこに、科学というのが神の証明に手を貸してくれるようになるのです。そう、身の回りをいろいろみていくと、神が設計したと思うような、植物の道官師管の仕組みや、美しさが数的に証明できたり(ピタゴラスの定理とか、フィボナッチ数列とか)と、やればやるほど、神の証明のように思えたわけです。すげーぜ、神^^ってなもので。19世紀までの科学史、とくに錬金術にその姿が顕著ですけれども、宗教と科学は親子みたいな関係だったわけです。

<続く>

<町そのものをテーマパーク化する動き>

このフレームワークが、過疎の建て直しには一番効くかと。これまで言ってきた分譲集落型フレームワークの基本は、街そのものを「ウリ」にするということなので。今後増えますよ🎵

大西 正泰さんの投稿 2017年12月5日(火)

天職の作法 2

《天職の作法続編 音楽でなぜ心が育つと思うのか? 前編》
もうえらく昔に感じる大学院時代に議論した内容が、「音楽でなぜ人の心が育つと思っているのか?」です。音楽教育をやっている人のほとんどが、「音楽教育の目的は情操教育だ」というのですが、その目的をきちんと説明できた人は皆無でした。説明を聞いてみても、「音楽を聴いたら、心が揺さぶられるでしょ。心が揺さぶられるから、心で感じている。それを鑑賞したり、楽器で表現したり、体そのものを使って表現するから、情操教育なのよ」と言われるわけですが、しっくりきている部分と、しっくりこない部分がありました。

子供時代から、「歌歌ってピアニカひいて、リコーダーひけたら心が育つって、めちゃくちゃ無理あるな」と思ってました笑。確かに、いいところのお家の子がピアノを弾けたり、バイオリンを弾いたりしてたので、「音楽を習えることのできるお家」には情操教育できる余地はあるなと思いましたけど笑、そんなら楽器のプロはみんな人格者かと笑。そして、人の心というのが、「学校にいる間に、育てるものなのか?」ましては人格的にも完成していない、というか、(80パーセント以上の人がそうかもしれない)不完全人間である大人や教師によって「心は育てられるのか?」というそもそもの問いも生まれました。

 とすると、「音楽教育で心が育つのかどうか?」という問いに答えるのは、教育を考える上で、かなり有効な問いだなと思うようになりました。

まずボクが考えてみたのは、「音楽」そのものの性質です。ボクの発想だと「音楽は言語」であると考えています。そもそもなのですが、国語、数学、英語、音楽は全て言語です。

言語というのが、ある「意味」を持った記号と考えると、数字は、世界で最もシンプルな意味しか持っていない言語です。どんな国の人でも、どんな文化を持った人でも、1は1以上の意味がありません。

つまり、一つの意味しか持たないのが数字であり、誰もが誤解しようのない共通言語で世界を表現したのが「数学」となります。

それに比べ、国語や英語といったものは記号そのものです。また、単語ひとつ取っても、文章の前後の意図によって「複数の意味を持った記号」にもなります。そして、こういった記号を通じて思考するので、日本語は我々日本人の「OS」でもあります。

我々は、日本語(S+目的語など+V)を使って思考しますので、日本語の持つ「特性」が反映されます。
加えて、ひらがなやカタカナ、漢字、アルファベットを使って、文意を表現します。例えば、べんちゃー・ベンチャー・Ventureと使い分けると、その違いがくっきりすると思います。
日本語の特性では、動詞よりも前に、目的語など状況を説明するのが優先される仕組みになっていますので、何よりも、お互いの状況や使っている文意が正確に届きやすいようになっています。

*注 英語でも同じように整理。英語だとアルファベットのみで、S+Vという
動詞優先の言語になります。日本語と比較すると、動詞=行動を重んじる
OSになっています。

さて、一旦整理してみます。

単一解釈言語とも言える「数字」という言語と、多解釈言語とも言える「言語」の違いをみてきました。では、音楽は、どちらの言語になるのでしょうか?
<続く>

《天職の作法続編 音楽でなぜ心が育つと思うのか? 後編》
*また、コメント欄に感想いただけると幸いです。

前編において、「単一解釈言語とも言える「数字」と、多解釈言語とも言える日本語や英語のような「言語」の違いをみてきました。

 では、音楽は、どちらの言語になるのでしょうか?」
http://www.print-gakufu.com/guide/4003/

音楽は非常に不思議な言語です。ドレミファソラシドのそれぞれの音は数字と同じ、ドはドでしかありません。しかし、色々な組み合わせを通じて、明るい曲調、悲しい曲調など、何かしら意味を発するものではないのに、音と音を組み合わせていくことで、我々の心の中には、「感情」が勝手に湧き出てきます。

ジャジャジャジャーーーーン。

この文字だけ見ても感情は生まれませんが、ベートーベンの「運命」を思い出して、音として聞けば、感情が生まれてきます。これから何が起こるんだろう、とてつもない変化が起きるような感情が揺さぶられてきます。

つまり、音楽というのは、数字のように、1音1音には全く意味がないし、つなげたところで112324980のような無意味な数字の羅列に似たような「音と音の組み合わせ」にすぎないにもかかわらず、感情に変化が現れ、複数の解釈を想像しうる、面白い「言語」であるのです。

このことから、「音楽でなぜ心が育つと思うのか?」に答えていきます。

音楽というのは、この音楽を聴くことによって生じる「言語化されていない、無垢の感情」をベースに、異なる解釈を対話したり、無意識に生じる「無垢の感情」を楽器によってゆさぶったり、揺さぶられたりすることで、「自分自身の無意識と対話する」ことによって、心にダイレクトに関わるから、情操が育つのではないかと考えられているのだと思います。

そのため、我々が普通に親しんでいる歌詞(意味が作詞家によって加えられている)のついた歌謡曲を「音楽教育」であまり取り上げないのは、音そのものから湧き上がってくる感情の方がより情操教育に貢献すると考えられているからだと思います。
*逆に言えば、歌謡曲をもっと使うことができれば、音楽嫌い
の私のような人間は、馴染みやすいのですが。。。

このように考えてくると、我々は、国語(日本語+英語)、数学、音楽という3つ(4つ)の言語を学んでいることになります。更に言えば、言語の初期の頃を思い浮かべると、エジプトのヒエログリフにしても、漢字にしても、おおもとは「絵=イメージ」を形にし、抽象化させて文字にしたものです。とすれば、美術も絵を通じて解する言語という言い方もできます。

すると、このように9教科は再構成されます。

++++
無意識にアクセスする言語(音楽、美術)
意識にアクセスする言語(国語、英語、数学)
++++
これに
****
言語を使って社会にアクセスする(社会)
言語を使って自然にアクセスする(理科)
これらのアクセスによって生まれてきた
ノウハウや文化(技家)
****
そして、
〜〜〜〜
身体にアクセスする(保体)
〜〜〜〜

これら3つの大きな軸によって、自分と世界との関係性を構築していくのが勉強だということです。

しかし、大きな問題点があります。

この3つの視点を統合する、あるいは比較検討する「視点」がないということです。

これは、先の感想で指摘のあった「道徳がない」にリンクしていきます。

僕の視点でいうと、「哲学」(自分と世界を見ていく)という総合的な視点を学ぶ分野が日本の教育においては不足していたという風に考えています。

*逆に言えば、そのようなものがなくとも、同調圧力のしっかりしている日本ではそれほど必要がないと思われてきた傾向にあります。

では、この道徳と哲学というのを、「ルール」という視点で改めて、考え直して見たいと思います。

天職の作法 1

<何のために勉強をするのか?>

10年ぐらい前に、中高校生に話していた「天職の作法」という講演について、今日喋ったので、久しぶりに思い出して書いてみました。またご感想くださいませ。

+++
自分が教員時代に悩んでいた問いです。「勉強して、何の役に立つのですか?」。子供達に聞かれた時に、どうやって答えてよいものか。大人でも「勉強なんか役に立たないよ」という声をちらほら聞きます。

僕なりの回答は、「勉強ナメンナヨ、です、ハイ^^」(笑)

 基本となるのは中学の国数社理英技家音美体の9教科ですが、9つあるのは、「この世の中を9つの基本視点でみよう」という発想です。9つの視点で世界を切り取り、見ていくことで、世界と自分がつながっていることがわかります。そして、その学ぶプロセスにおいて、自分は何が得意で、何が不得意なことなのか、それがわかることで「世界と自分を結びつける視点」が見えてきます。
また、不得意なことがわかることで、明確に自分の進みゆく道が見えます。だから、役に立たない視点(教科)がわかるためにも、役に立つか役に立たないかわからない勉強をする必要性があるのです。

そして、この世界と自分を結びつけるもの、これがわかると、世界が様々な天才たちの遺産(数千年の歴史において名を残してきたイノベーション、世界を変えた発明)によって我々の生活が成り立っていることがわかります。火打石の発明を引き継ぐライター、車輪の発明を引き継ぐ車などなど、名もなき天才の発明によっても支えられています。

こういった天才の営みを引き継ぎ、つなごうとしてきた人類のタスキリレーの集大成が「教科書」です。

これらの天才として教科書に載るには、国民すべてに愛されてきた長嶋茂雄であろうと、あのイチローでさえも、近現代史として100年は名を残したとしても、1000年単位の視点から見る教科書には名を残すことができません。1000年の視点で見て教科書に残るとすれば、山中教授のips細胞の功績ぐらいではなかろうかと思います。それほどの天才の偉業が「教科書」には載っています。

僕の専門教科で説明すれば、社会科で学ぶことは、「どうやって平和に暮らすためのシステムが生まれてきたのか」、ケーススタディとしてこれらを共感、追体験し、どこかで歴史の意思決定が変えることができたのか、あるいは、少しでも変わることができたのか、その「物差し」となる目を養ったり、意思決定できるようになり、新たな「社会システム」を創造するために学ぶものです。

例えば、「投票」というルールを事例にしましょう。我々はこれまで、政権交代といえば、主としてやってきたやり方は「戦争」です。戦争ごとに政権交代が行われ、国の名前が変わったりしていきます。こういった戦争という方法を使わなければ政権交代できなかったのを、平和裡にできるようになったのが、「投票」というルールです。

一人一人が投票権を持ち、無血に為政者を選べることができるようになったのは、類稀なるイノベーションであり、我々は投票という「平和的クーデター」によって政権交代をすることができるようになりました。

この「投票」という営みの「凄さ」をわかるためには歴史の営みを知らずにはわかりませんし、この「投票」というルールを守り、有効に機能させるためには「投票にいく」ことによってしか維持できません。それゆえに社会科は勉強する必要があります。

そして、勉強というのは「タイムカプセル機能」を持っています。例えば、バイオリンを作っている人(音楽)がいたとします。ほとんどのバイオリンの形は似ていますが、全く違う形のバイオリンを創造しようとしたとします。そうなってくると、色々な形のものを試行錯誤するという方法もありますが、音波のでき方という視点(理科)で見れば、3Dプリンターで試行錯誤して(技術家庭)、改善ポイントが見えてきてアイデアを出す方に注力することができます。

こういった架空の事例でもわかるように、9つの視点(9教科)を学んでいることで、足りない視点が見えてくるし、どこから勉強しなおせばよいのか、どのように進めればいいのかがタイムカプセルを開け直したときのように、また勉強することが適切にできます。

ですから、勉強は今役に立たなくとも、「役に立つとき」が現れた時に、適切に「使える」ようになるためにも必要なことなのです。

もし「勉強が役に立ってない」という大人がいれば、それは「役に立てる場面を生み出せない生活」をしているのであり、勉強を必要としていない「退屈な日々」を送っているともいっているのに等しいのです。次の世代にタスキリレーをしようとしていない、天才たちの遺産にタダ乗りしているフリーライダーであることに気がついていないのです。

改めて、教科書に登場してくる天才たち、そして天才と天才たちの間で、漸進的イノベーションを繰り返してきた名もなき人々の積み重ねを感じて欲しいのです。勉強というのは人類が営んできた「イノベーションの追体験」です。我々の人類史を追体験していくことで、次世代にタスキリレーをしていくための「バトン」でもあります。

自らが大人になって、好きなこと、やりたいこと、たまたま偶然であったなどの動機のちがいはあれど「仕事」をえらび、その仕事に真摯に向き合う。仕事をつうじて、天才たちの遺産を次の世代に引き継げていくのが、皆さん自身の「天職」となるものです。その天職にしていくための作法が「勉強」という営みのことなのです。

+++

 

「地域社会維持発展法人」?

うちもこれになれるか?「地域社会維持発展法人」?
本当に1次産業での人手が足りなくなって来ています。海外からの研修生制度以上に、数を増やしていかないと、本当に基礎産業が壊れていきますね。
リンク先 https://mainichi.jp/articles/20170817/k00/00m/010/117000c

考えてみた、地域商社

<昨日考えてみた、地域商社>
昨日行われた香川大学ビジネススクールの同窓会with高松三越のワイワイ会(会の名称)。
地域商社というのが、どういうものなのか。昨今よく聞く中で色々考えるきっかけにしようと、昨日から初日として参加している青森・弘前大からきたインターン生と一緒に参加してきました(私自身は6期生でOBになります)。

色々な話をしてみて見えてきた課題は、

1)地域内の物品などを取りまとめして、どこの誰に売るのか?
国内マーケットが飽和している中、またふるさと納税とかぶ
る部分も多いので、何が同じで何が異なるのか。
2)海外向けを狙う場合、ジェトロでやっているものと何が違う
のか?個別企業がやっているのと、総合でやるものの違いな
のかどうか。
3)国内でみた場合、かなり売り方に工夫しないと、通販でもな
んでもそうそう売れない。すでに強いチャネルを持つところ
で売れたとしても、生産者や地域商社にどれほどの利益率が
残るのかわからない。それほどの製造ロットに対応できない
中小企業では、数売ってさばいて利益を確保という戦略は使
えない。ならば、どうやって仕掛けていくのか。

以上の論点を埋めるには、あまりにも時間がなかったのですが、これから地域商社を考える上で、どのような戦略を描けば良いのか、その課題をいただくことができました。

参考https://www.projectdesign.jp/201606/overseas-expansion/002896.php

《寛容性のある暮らし》

《寛容性のある暮らし》
神山における移住関係者の寛容性は素晴らしい。偶然出会った時のレスポンスがいいから、つながりが広がりやすい。そして、偶然の出会いにワクワクできる。こういった受け入れにたいする寛容性というのが、小さなコミュニティを往き来するコネクターを活発化させ、まるで呼吸するかのように街に人が交流でき、より交流を活発化させる。

いつからかうちには少なくなってきている、この寛容性。人口減少に伴う個人負担(例 草刈り範囲が増えるなど)が増えて忙しくなり、ヨソモノ、バカモノとコネクターとの間にさける時間的余裕が減ってきたのが構造的課題。なかなか悩ましい話です。

適度な暇をもて余す。

寛容性を考える上では大事だなあと思います。
街づくりの人類学

《休暇の読書》

《休暇の読書》
久しぶりの読書。ベーシックインカムがよくわかる「隸続なき道」が面白い。まさかニクソンがやろうとしていたこと、それを阻んだイギリスのスピーナムランド制度など、歴史や実証実験の話もあり、とても分かりやすい。うわさでは、作者はロビストとして意図的に仕掛けているとも言われているが、それも含めて面白い。ソトコトも後で読もう🎵
https://m.facebook.com/bunshun.online/posts/1782833092027698

<御礼と精進の方向性>

<御礼と精進の方向性>
 今日は、各界の先達のみなさんのまえで、公共不動産のリノベーションについてお話をさせていただきました。
 「偶然の産物ではなく、科学的な街おこしを」といいつつ、おおざっぱな狩猟系、遊牧系、農耕系の分類方法や、ロジックの進め方、アイデアのほうに気持ちが行き過ぎて、一つ間違えば、大きな誤解を生むこと。また、いろいろなアイデアで街づくりを行っているが、誰のための街づくりなのか、誰が望んだ街づくりなのか、その意思決定の主体はいかに、と本質的な質問をいただきました。反省というより、プレイヤーとしての行動優先主義の批判については、とても意義深い学びでした。

 まだまだ、自分の科学的な街づくりというのは、検証に耐えうるものではありませんが、こういう営みを通じてしか学べない貴重な場となりました。お招きいただいた辻田先生はじめ、大学関係者のみなさま、パネリストのみなさま、来場いただきました皆様ありがとうございました^^

《概念探究学習法に思いをはせる》 

20年以上前に学んだ内容がバカロレアとして復活したり、ジグソー学習法として盛んになったり。あの頃の猛勉強が未だに役にたっていることを思いつつ、言葉は変えるものの、結局、教育史や授業論の蓄積を活かしきれていない、というか進歩の遅い教育のスピードにもいらだちも覚えつつ。最近思うのが、もう一度最初の指導要領が掲げていた問題解決学習法が、まさにソーシャルデザインだなと感じます。戦後の、生活そのものの地域課題に取り組むという問題解決学習から、人口減少による新たな街のデザインをするというプロセスは、ネオ問題解決学習の予感を感じさせます。

<スガシカオ「午後のパレード」と地域再生の課題>

 最近地域再生の課題をいろいろ考えるなかで、2006年のアルバム「parade」のラスト「午後のパレード」を思い出します。   
◎動画 https://www.youtube.com/watch?v=xzPfu2VnKXw
◎「午後のパレード」の歌詞
 http://j-lyric.net/artist/a000655/l0091fc.html

 街づくりの黎明期から成長期にかけて、祭りのように楽しく、何か楽しい未来が続いてくれそうな、そんな狂騒に耽ることができます。が、急激な成長期の中で、第一世代の移住者と第二世代以降のn世代の移住者との距離感が生まれてきます。いつのまにか、地域住民と第一世代の移住者の間で生まれた「祭りの一体感」みたいなものが、見知らぬ顔のn世代の移住者の思う、そして作ろうとする「n人が思う街の理想像」とずれがどんどん生まれたり。

 本来、「n人が思う街の理想像」というのが常態なはずですが、街づくり黎明期から成長期にかけて生み出された「街の理想像」が魅力を生み、一体感が生まれたが故に、のちに入ってくる人との間に生じる「バラバラ感」。

 このずれを修正できる社会装置というか仕組みをもって、成熟期に向かわないと、このずれが「しらけ」を生み出したり、個々の街づくりの小宇宙がたくさんできることで、街づくりの一体感が薄まりやすいことが起きます。
 
 とはいえ、このずれが「多様性」であり、「n人の描く街づくり」こそがクリエイティブの証でもあるように思います。が、この多様性に耐えられないのは、「一体感=祭り」が一瞬のきらめきであるということへの認識ができてないことから生まれるものかもしれないなと思っています。
 
 そこで、この祭りの高揚感を得ようと「祭り=イベント」を誰もがやりたがるわけなのですが、すべての人が参加しなければならないもの、「n人を束ねるもの」でなければ「祭り」ではありませんん。だから、祭りでない祭りが繰り返し行われることになるんですが、結果的に、それぞれの街づくり小集団での祭りになるので、より互いの溝を深める結果になっていきます。

 しかし、これが都市化というか、人口が増えていく現象なのだととらえているので、ボク自身は「バラバラ=常態」というふうにとらえています。

 そして、この「バラバラ感」を肯定的にとらえて、お互いの「街づくり小集団」がともに意識しあい、狂騒だけでなく共創できる関係性につなげていく。

 このマネジメントが「街づくりのかなめ」になってくると思っています。この仕組みがなければ、街づくりは持続可能なものになりません。
 
 こんな思いを、いつも「午後のパレード」を聞きながら、歌詞を聞きながら、考えてしまいます。

<スローフードまとめー感想ー>

 おはようございます。修道院ホテルでの生活のためか、早起きになじんでしまったおにぴです^^

 さて、10日間にわたる日本とイタリアでの濃密な体験。まずは、全体を振り返ってみて、そこから各個別の話に行きたいと思います。

 しかし、最初にぶっちゃけていってしまえば、”めちゃくちゃいい体験だった”ということです。そして、ボクが思っている街づくりの方向性と課題。これは当たりまえのことでもあるし、最先端の課題だとも確信できました。

 朝から飛び切りうまいコーヒーを飲んで書き始めました。この深煎りのコーヒー豆は日本の千葉で活躍している小澤陽佑
https://www.facebook.com/aka.oja?fref=ts
からもらったもの。深煎りなのに、必要以上に濃さを感じさせない。彼の仕事ぶりが伝わるコーヒーです。

 帰ってきたから、振り返ってみて、やっぱり血が騒ぎだしましたた、熱くなりました。シンプルですけど、やっぱり、まじめに生きている人間の力はすごいなあと。ビジネス書で安易に、売れるには物語が必要だなんていうことばがうさん臭くなるぐらい、本物には本物の過程があるんですよね。この本物の過程を経てきているから、物語が生まれる。ある意味、本物のものづくりって「神話」なんですよね。土づくり、海づくりに邁進するローカルな人たちが紡いだ”仕事”なんですよね。まさに、神話にふれた10日間でした。
  

(1)なぜスローフードに・・・
  最初は単純な話で、佐賀の友人鳥谷憲樹https://www.facebook.com/toriya.kazukiから「いってみたらいいですよ」というお誘いから。最初は聞いたことあるけど、スローフードってなんだろうぐらいの感覚。正直、行くと決まった前後の審査プロセスも、受け取ったmailの段取り見ても、まあ、ざっくり感漂うもので笑、非常に気楽に考えていたというのも正直なところでした。また、後々にその理由もわかるのですが、事務局とほかの人とのメールのやり取りなどを見ていても、盛り上がるわけでもなく笑。まあ、正直、自分で期待値を上げていくしかないなあという感じでした。

 渡航に際しては、二つの観点でみていて、一つは、アグリツーリズムなどに代表される「暮らし方そのものを観光素材にする」発想を体感してくることでした。
 ビジネスになる観光素材の多くは、①オンリーワンな自然、②金持ち、権力者の遺産。③特産物。この3つにほぼ集約されるのではないかと思っています。しかし、8~9割がたの街というのは、オンリーワンなエリアも持たず、遺産もなく、ただ沢山採れる特産物があるだけという事情だと思います。そうなると、①②③ともに持ったエリアとは違う発想でいかないといけない、それでいて、”地元にある”もの。そこで生み出されるものというのを考えていく上で、「暮らし方」そのもの、そこで済むそれぞれの人の「生き方」そのものを観光素材になっていくようにすることが、一番の観光の良さだろうなと考えていたので、その先進地でもあるイタリアで学んでみたいなというのがありました。

 二つ目に、街づくりの観点から見たときに、単独自治体での勝負を繰り返しても意味ないなというのが現時点での思いです。一つには、人口減少は日本全体で起きていることで、元気な単独自治体が数パーセントできたところで、問題解決にはつながりません。それよりは、自治体連携、民間連携をどんどん増やし、元気なエリアを広げていくことしか、最終的には方法がないのかなと思っています。
 この発想をもとに、昨年は地元にいないで外にばかり出ていき続けたことで、地元での成果が出ず、町から委託事業の継続破棄寸前までいきましたけど、自分の解決方向としては、この方向でしか、根本解決していかないと思っています。
 そのなかで、大事なのは、パートナーを組める人、地域です。点だけで考えるのでなく、点と点を結び、その間の関係性=魅力をどんどん互いに交流させて、うねりを生み出していく、新陳代謝を常に生む、よどみを起こさせない仕組みにしていかなければ、たぶん、圧倒的なリーダー台頭を願ったり、だれもが無責任に「なんもしないことがメリット」になるような地域や組織を作ってもだめだろうと。

 今思えば、こういった思いでみてましたけど、本当に、期待値なかったです笑。

 渡航前に日本代表団のメンバー表みて、面白そうだなあとは思ったものの、スローフードそのものには、今一つ手ごたえを感じるものがありませんでした。

<続く>

テッラ・マードレ= サローネ・デルグスト2016の

<おにぴのヒトサラGO出現エリア>

 7月28ー8月1日 徳島エリア
 8月2日 名古屋エリア出現
     (名鉄周辺で飲んでいます合流可)

 8月3日 東京・新橋エリア出現
     (昼から夕方空いてます)  
 8月4-9日 宮城県女川町エリア
      (ずっといつでも)
 8月9日 東京駅エリア(飛行機にのるまで)
 8月10-25日 上勝・徳島エリア
    *ゲストハウスの清掃、インターン受け入れなど
     ありますが、確実に会えます。
     帰省のみなさまぜひ。
 8月26日 東京駅周辺エリア(講演時間以外は)
 8月27日 東京エリア(どフリーです)
という感じです。 

<街づくりの硬直性と交換>

<街づくりの硬直性と交換>
どうしてもプレイヤーの少ない場所だと同じ人間の脳内アイデアを形にすることが多くなるので、ある意味、成熟化と硬直化が同時におきはじめる。

そうなると、意図的に硬直化(ある意味統一性があるといってもいいんだけれども)を壊していくように、

①人の流動性を高めて風通しを良くすること

②一人一人が疲れないようにすること

③考えをオープンソースにすること。

そして何よりも

④プレイヤー同士が、互いの人脈をシェアする事。

昔学んだハーバーマスを思い出してきた。
いまやつているひとさらいの旅も、自分そのものの風通しをよくし、自分自身をシェアし、される《装置》として機能させる取り組みでもあります。

<田舎にはプレイングマネージャーが良く似合う>

  ここ最近の地方創生議論において、実は 論者の出生地(平野か山間部か離島かなど)や 「地方」についてのイメージの差が、結果的に 大きく左右しているという内容をいくつか書き ました。  

ロジックとして考えれば、  

①全国津々浦々を公平な環境にするためにお金を使った。→成長期ではよかったことだろうと思います。  

↓  

②ところが維持費であったり、無駄な投資も たくさんしすぎたために、もうお金がないー

↓  

③お金がないときは「使う」ほうがいい。   

 経済はお金を使ってまわすもんだから。 (お金は実態でなく、使った「量」だと いう話)

 いや、「使わない」ほうがいいよ。 使わないでも生きられる方法あるだろう。   

 どっち選ぶ?   

 (いまここの感じ)

 

すごい大雑把ですけど、そんな感じではないかと。

++++++++++++++++++++

この二つの狭間のなかで、地方という存在は、

二手に割かれています。

++++++++++++++++++++

 

人口30万以上の都市だと、コンパクトにして コスト下げながら、

大きな経済の流れについてい かざるを得ないし、利益を生み出して、

財務を よくする企業的なアプローチが有効だと思います。

ところが、その周辺に存在する小さな自治体に なると、条件不利地であるから、

儲けることが とたんに難度が上がる。

だから、小さな自治体は、特殊解(そこでしか できないこと)を生もうと必死に

努力している と。

まさに地方は東京のように、ビジネスをどんどん できる体制になるように求められるし、

しかし 同じ行政区域内(県)には、たくさんのビジネス 条件不利地域の過疎があり、

過疎では、経済とは 異なる「働き方」「暮らし方」などの方向で 生き残りをかけ、

価値観そのものも相反した ベクトルでひっぱられると。

 

相反するベクトルの綱引きのなかで、 どういう処方箋が必要なのか、

非常に 難しい現状です。

 

***

そういう特殊解を求める「田舎」なんですが、 求める人材像と活躍できる人材に

はずれがあります。 というのは、特殊解を生み出すことができる 人材は、

田舎では本来「受け入れられにくい」 人物であるはずですし、田舎では理解

しがたい ことを次々と行動できる人でないと、特殊解 を生むなんて荒業は

とてもできません。

が、田舎で活躍するためには、特殊を追いかける 人物にも、等しく「プレイヤー」

であることを 望みます。つまり、そこに住み、そこで仕事し みんなが「動いている」

のがわかりやすい人物を 望みます。

 

++++++++++++++++++++++++

こうなると、問題は、企画をしながら、田舎の なかで動き回る、

外から見ていて、努力がわかり やすい「プレイングマネージャー」

であることを 求められるのです。

++++++++++++++++++++++++

 

しかし、野球の世界でもプレイングマネージャーが うまくいったためしが

ほとんどないことからも わかるように、両方をバランスよくやるというのは

監督と選手の両方をやれという荒業を要求している に等しいのです。

監督は監督の仕事を、選手は選手の仕事を役割と してする分業が

やはり必要な気がします。 が、実際の多くの地域で必要としているのは、

まさに、そういう人なんですが、実際にやっている人たちはみんな消耗し、

疲れ切る時期がもう少しできているように 思います。

プレイングマネージャーをやればやるほど、 企業人として業績をのばすほうに

シフトしていくか (マネージャー(監督)側へ)、それとも、 街づくりとして、

プレイヤーに徹して地域に 入り込んでいくことを望むのか。

 

どちらを選んだとしても、マネージャーになれば 住民から動きが見えなくなり、

うわさやまわりまわった 情報で理解されるようになるので、孤独に陥るし、

プレイヤーになっていけば、当然、企画を考える 時間は無くなる。

 

だからこそ、いかに、人を消耗させない 街づくりと経済を生み出す仕組みを

考えないと 非常に問題が大きい。

<長老型とベンチャー型の街づくり>

 地元の長老が「よっしゃよっしゃ」「やりなはれ」と
いって、大きな目標の設定とサポートに回る長老型街
づくり。例は、海士と神山。

 起業家精神に富む首長や街づくりのトップがけん引
していくベンチャー型街づくり。
 例は、武雄や福岡市など。
 
 日本には長老や殿がプレイヤーに回るより、
みこしに担がれるぐらいがちょうど
いいのかもしれないなあと。

 結果的に上の事例のところはそうなりつつ
ありますけど、<長老+ベンチャー型>が過疎の
街づくりでは、定式なのかなあ。

 ①長老(自治体)+ベンチャー(民間)
 ②ベンチャー(自治体)+長老(民間) 

第三の道というか、理想は、
**********************
 ③ベンチャー(自治体)+ベンチャー(民間)
  +長老(サポート)
********************** 

による街づくりなのですが、ここをちょっと狙って
みたい気がしますよね笑。

 僕の教育の理想は、ピッコロの最長老なので、
長老ポジ目指したいです^^

 

<地方創生論ははだかの王様化しつつある>

 

<前編>
 本日のおともの本。
 
 「地域再生の失敗学」
 
 おおよそ、地方創生ブームの裏側が出版されつくして
きました。
 おおよそ、補助金が投資でなくて、使い切り。維持費を
考えない非ビジネス設計。土建国家と仕組みが同じ、補助金
漬けの新たな土建構造類似型ビジネスになどなど。

 現場のプレイヤーから見れば、当たり前の直視している
現実が見え隠れしています。

 とはいえ、本を書いている人の80%はうなづけるものの
(分析部分はほぼ当たっています)が、残り20%の提案
部分がなんとなく、うなづけないところがあります。
 *この本がというよりも、どの本も同じ傾向に。

 批判を返してこない公務員批判であったり、政府の政策
批判とMBA講座みたいなビジネス処方箋。

 原因がわかっても、どういう薬を打てばいいのか、
本当のところは、それぞれの人口規模や近隣都市の力加減、
町がどのような文化、産業、教育ステージにたっているの
かなどによって、かなり変わっています。

 そして、そもそも論ではありますが、産業を生むに
あたって、それほど合理性の高くない場所から順番に
人口が減ってるわけであって、ビジネスという処方箋が
効きやすいとも限りません。

 そういう意味では、県庁所在地などの地方中枢都市以外の
人口規模の多くない地方零細エリアというのは、もともと
産業構造そのものが脆弱ですので、「依存体質になりやすい」
わけです。

 
 そういうわけで、何かしらのビジネスを考えるならば、
かつての発展途上国のように、モノカルチャーというか、
その土地の特性を活かした一点突破的な産業づくりを
少なからずやらなければなりません。

  が、モノカルチャー経済の特徴としては、外部環境に
影響を受けやすいという性格があるので、自立しようが
補助金であろうがどっちにしても外部環境の影響を色濃く
受けるわけです。

 結局のところ、平野(都市)で育ったビジネス観と、
山間・島(過疎)で育ったビジネス観では、かなり
大きな違いがあるような気がしてなりません。

 そういう意味では、論者が平野出身者か、山間・島
出身者かというのも、論の根底イメージに影響を与えて
いるように思います。

 
 そして、これらの話を突き詰めると、人口減少社会
では、平野に住め論(コンパクトシティ)にいきつく
わけでして。

 地方創生をやっているプレイヤーは、こういった
本で刺激を受けているわけですが、同じ刃の返しで
かなり厳しい状況が待ち受けているのは間違いあり
ません。

 最小コストのインフラ整備の費用を割り出し、
行政コストの最適化をしつつ、どうやって生き残って
行くのか、切実な争いが今後生まれてきそうな気が
します。

<後編>

今日も何冊かななめ読みしています。
 
 地方創生論のいろいろな本。

 こういうのが出てくる時点で、やっぱりブーム
なんでしょう。

 しかし。

 読めば読むほど、紹介している成功例というのは
財務諸表みればそうでないことが一目瞭然ですし、
経済的に成功している事例をみても、それは企業
としての成功事例であって、街づくりの成功事例
ではないような気がします。
*ここが大きなポイントでして。

また、分析をしにきた識者はデータやヒアリングの
恩義があって本当の姿を描くことがかなわない、
道義上の問題を抱えます。

また、現場を見ることがほとんどない識者の、
マスで議論するパターンでは、マクロな問題設定で
見るがゆえに、ミクロな現実が見えにくくなるし、
リアルな処方箋に思えません。

現代版「姥捨て山」の議論の延長です^^

 どっちの論にしても、実態は「伝わらない」し、
「伝えられることはない」という結果になっている
気がします。。。

 いつまでたっても、大本営発表の構造が抜けきれて
いないわけでして。

 いやあ、どうしたらいいんでしょうかね笑

 過疎がまだらに消滅していくなかで、
大多数が「平野の住人」ですので、民主主義の
原則にのっとれば、時間の問題で、「平野の論理」
で物事は決まっていきます。

 こういうほんとの議論を、どこでしたらいいん
ですかねー 

<久しぶりに会いました>

とある一本の友人からの電話で、樋渡社中の樋渡さんの講演会を知る。

急いでいって、このショット^^

來徳ありがとうございました^^IMG_2697 (3)

 

 

<最近つくづく学んだこと>

<最近つくづく学んだこと>
①有名先進地域とほかの差
広報力の差でしかないなと思うほど、いい
地域も実は多い。目立つが価値の部分もあり
かなと。
②恵まれた地域ほど、努力ができない。
産業及び観光資源のある好立地地域は、努力
しない。努力せずにあぶく銭を一度でも体験
した世代がいるところほど、動けない。
③危機感をもてというのは無理な話。
危機感をもっていない人に危機意識を持たせる
のは無理。危機になるから意識が変わる。
危機よりもワクワク感で攻めるほかなし。
④リスクをしょったことない人ほど、管理に
走り、リスクを負ったことがある人ほど
ゆだねることを知っている。

 管理していれば仕事をしているように思うが、
管理しても何も生まれていないなら、管理
するだけ無駄。管理よりも提案主義で街は
変わる。
⑤女性の活躍していない街は成り立たない。
男性脳での街づくりがおこなわれているところ
程、隙間のない町、サードプレイスのない街。
⑥個が強すぎると地域は成り立たない。
ベッドタウンで、急激に人口が増加し、共通の
地域愛もつながりもできないうちに形ができて
しまった地域での話。
対話するにもみんなそれぞれ意見が強すぎて、
まとまらず、妥協妥協できたせいで、結局
その後何にもできない、ただひたすら愚痴の
でるノークリエイティブ都市の誕生。
⑦街に必要な存在。
・通訳者(内と外、男女など、異世界を言語で説明
できる人)
・コネクター(ふらふらと人と人の間を行きかう、
つなぐ人)
が実に大事。街にとっての”ひも”みたいな存在が
余白をうろうろしてくれるだけで、街は面白くなる。
街には、ぶらぶらとしている人が大事。
ボクが思うに、次はプロデューサー
(まとめる人)を必要としない街づくりも
検討したいなと。なかなかまとめられる人が
出てこない地域がはほとんどなので、
それ抜きに仕組みとして何かできないか
思案したいです。

<ボクラハ ドコヘ ムカウノカ?②>

全国いたるところの<郊外>は、まるで
何か同じものを模倣したかのように、似ている。
一つとして同じ配置になっていないにも関わらず、
総て同じような雰囲気を持っている。

 なんで似たんだろうか、謎でした。

***

郊外は、地方の人にとって、便利な<東京そのもの>
だったんだなと今になってわかる。

猥雑な看板、でたらめな街の構成。。。。

都会でしか手に入らない、魅力的で便利で
欲しかったものが溢れるところ。

すべて、魅力のある都会=東京を手に入れるための
代償行為であり、郊外は、田舎の人にとっての
お手軽に獲得できた<リトルTOKYO>だったんだなあと。

しかし、これからの街づくりで、<リトルTOKYO>
を再生、復活させるのがゴールなのか?

+++++++++++++++++++++++
ボクラハ リトルTOKYO ヲ カソニ
モチコモウト シテイルダケデハナイノカ?
+++++++++++++++++++++++

東京で見るような、お洒落な場所や建物を作り
<代償行為としての都市化>を進めているに
過ぎないのではないか?
*おしゃれな場所や建物が希少性のある場合は、
まったく問題ないのに、集積しだすと、お洒落な
街並みが逆に田園風景となじまなくなったり、
ほかの都市と似通ってくる可能性があるという
意味です。

これは新たな郊外を過疎に作ろうとする
レジスタンスに過ぎないのではないのか?

いったん、落ち着いて考えてみよう。

急がば回れ。 スライド1 スライド2

<田舎のフローバル化を阻むもの~過疎版EUを作りたい~>

いろいろ先進地域を含め、視察見学遊びに行きまく
っているなかで、ほんとうに、近隣同士のエリア間
協力が薄いです。

もう人口減少時代でやることは、
*****************
<呉越同舟と合従連衡>です^^
*****************

+++
呉越同舟とは、
仲の悪い者同士が一所にいる、または共通の目標で
協力すること。
+++
合従連衡とは、そのときの利害に従って、他と結び
ついたり離れたりすること。 また、時勢に応じて
巧みに計略をめぐらす政策、特に外交政策のこと。
+++

意外と自分が博愛主義者なのに気が付きましたが、
人口減少時代において、敵と味方なんか、もうどうでも
いいんです笑 異なる文化をもつ同士でありながら、
そこをうまく引き合わせる思考が大事です。

たぶん、仲良くすることが第一義のように思われる
かもしれませんが、僕自身は、仲が良ければ一番いい
けれども、仲の良しあし超えて、協力せざるを得ない
ということをきちんと理解できる、理性を持った協力
のほうが長続きするように思います。

例えば、いま先進的取り組みで有名なところ
たくさんありますが、その隣の町とはどうでしょう?

ボクの知っている限り、それほど密にできている
ようには思えませんが、EUみたいな取り組みは
田舎間ならできるような気がしています。

観光連携は比較的進んでいるんですが、教育連携、
住宅連携、商業連携などなど、いろいろできる
ことたくさんあります。

また、町おこしのノウハウも、草創期・死の谷・
成長期・成熟期・衰退期のそれぞれの時期ごとの
ノウハウがあります。人口別でも、5000人以下、
5万人以下、10万人以下でやはり変わってきます。

そのノウハウをもっと丁寧に共有しないと、
無駄のオンパレードです。

組むべきは近くの隣人、学ぶは遠くの先達。

https://www.youtube.com/watch?v=W3NBL51hDyY

過疎論を考える<ボクラハ ドコヘ ムカウノカ?>


過疎の町を、コンビニやスーパーができて、
映画館に図書館のある普通の町にすること。

これが、地方創生か?

どこに我々は向かおうとしていくのか。

観光地を核とした観光都市。
門前町を軸とした宗教都市。
工場を核とした工業都市。
大学などを軸とした研究都市。
・・・・

いま、僕らが住む街を、中途半端になんでも
そろう街にしてしまうことが、もし誤った再生で
創生でないならば、

①どんな機能が再生され、かつ新しくなればいい?
②何と何が見たされば、魅力のある街になると
いうのか?
③どこまで人数が増えれば、ミニマムに再生できたと
いえる人口なのか?

今度、しゃべる講演の核の一つの過疎論問い。