<我らはみんな病んでいる(1)〜街づくりのココロ学〜>


 ここ1年、ずっと考えているのが、「我々は病んでいる」ということです。
*1970~80年代にはすでに指摘されていることですが、街づくりの文脈では語られたことがない。

 私たちはみんな”同じルール”(貨幣経済・組織などなど)で「生産性をあげなければならない世界」に生きています。

 生産性をあげるためには、より合理的に、誰もが納得するように、そして効率よく、無駄をなくす。つまり、余白をどんどん消していき、精度を高めていくことが必要とされます。

 
 考えるべきことは、効率をあげ、無駄を減らすこと。コストカットが大事なスキルとして、重宝される世界です。1分かかる仕事を30秒でできれば生産性は2倍に。給与が同じならば、その分、商品の値段を安くすることができる。また、大量生産すればするほど、維持コストは安くなる。

 このゲームの勝利者は、つねに、フル回転し、生産性の高い生き方を要求され、結果を出す人々なのです。

 しかし、そのおかげで、私たちは、いろんな「もの・サービス」を手に入れました。

 過去の歴史をひもとけば、あらゆる階層の人が、かつての貴族並みの生活を送るだけのインフラがあります。いつでもどこでもコンビニに行けば食料は手に入る。いつでもどこでも、ネットで買い物ができる。生存を脅かすようなものは年々減っている。

 モノとサービスにおいては、「目指してきた社会」に到達し、いちおう何かしら新しいものを作らねばならないという「歴史は終わった」かにも見えるのです。

 いま、繰り返し繰り返し要求されている創造性も、実際、ほんとうに必要なものやサービスを生み出しているのかといえば、”過剰な創造性”ではないだろうか、と思います。

 毎月のように登場してくる新商品のラーメンやお菓子などなど。車だってすでに「そこまで欲しくはない」のに、新しいモデルが出て、需要喚起をさせられている。”欲しくもないのに飢えていると思わされている”のではないでしょうか?

 だから、”過剰な創造性”を発揮し、”過剰な生産性”を要求され、過剰に働くことを求められる社会で、人口減少していき、労働生産人口が減っていく社会では、「引退がない」し、日々ループされる「仕事の世界」から解放されない。逃げるためには、”ループの外”に出るしかないのです。

 
 しかしながら、この”ループの外に出よう”という動きも、”一時的なもの”なのか、”引退して外にでるのか”。もしくは、”違うルールのループに入る”ことなのか。まるで異なりますが、それはともかく、”外に出よう”としているのは間違いないことだと思うのです。

 この外に出ようという動きが、ボクが関わっている地方創生の”心的実態”ではないかと思っています。

 東京での”本業”を持ちながら、違う仕事、地方での仕事を持とうとする「複業」の動き。*副業ではないのです。

 東京と、贈与やシェア経済が文化となっている田舎へ経済拠点を持とうとする「多拠点」の動き。
 *田舎の人は多拠点とは言わないし、東京の人は東京内多拠点を目指してもいない。

「勝ち続けるか、やり続けるか」「引退のない世界をどういきるのか?」

 東京の暮らしや、仕事や消費の面白さを残しつつ(肉体的実体)、それとは異なる世界の田舎を組み合わせる(精神的実体)こと。

 言い換えると、異なる複数の世界に、自らを分裂させることで、心の健康を保とうとする動きではないのか、と思うのです。
 *東京生まれ東京育ちの人は、また異なる感情があるよ
  うに思います。

 ここに欲望の原点があるとするならば、「経済的自立をしていない田舎・地方を経済的に元気にする」と言うアプローチは、そもそも異なるように思います。というのも、都市と同じルールに切り替えていけばいくほど、田舎に住む、移住する動機は低減していくからです。

 となると、地方創生の目的が人口維持ないしは、移住促進であるならば、起点は”心療”であり、その副作用として経済的に自立していく方向にいくべきで、逆のアプローチではないと言うことです。

 また、合理的で効率的なものを好む”都市世界”は、一見すると複雑系な世界に見えますが、貨幣経済でいえば、よりシンプルなルールで構成されている世界です。シンプルであればあるほど、強者と敗者はわかりやすく、ランキングを出しやすい世界ではないかと思うのです。

 では、田舎が目指すべきは、何かと言えば、”シンプルすぎない世界”を目指すべきだと思っています。

 このあたりの、地方創生における”心的世界アプローチ”をこれから紐解いていこうと思っています。

(続く)