読後1 「21世紀の民俗学」

読後

台風のため久しぶりに読書楽しめました。
「21世紀の民俗学」は、前半が特に面白かった。かつての民俗学(20世紀の民俗学と作者は言う)が日本人の行動様式を丹念に探り、事件や政治など、特異点に着目するのでなく、普通の生活の中にある「何か」を探る学問であるがゆえに、地味だったと。そして普通を探るゆえに、また、グローバルになつていくなかで日本人だけの行動様式が薄まっていく過程で、どうしても21世紀になって、何を対象として探って行けば日本人の行動様式に迫れるのだろうかという想いから書かれた本です。興味深かったのは、写真についての変遷。お祝い事や753などの記念日しか写真がとられなかった「ハレの日」のための、そして家族や自分の歴史を残していくためだった写真が、記念日でもなくお祝い事でもなく、日常のありとあらゆる場面でとられるように変わってきたことを自撮り棒等を例に語られている所など、面白かったです。インスタグラムとか見るに、言語中心的なフェイスブックやツイッターと違い、写真や動画がメインでコミュニケーションが広がっていくのも面白い現象です。

読後2 「数学する身体」

読後2
「数学する身体」。
究極に無駄を省いた言語である数学。数字の仕組みやその成り立ち。ギリシャで生まれた対話のための「証明」の誕生等々。究極に無駄を省かれたはずの数字や数学の中にある、生の営みというか、昔の人々の想いが巻き付いていることに非常に「人間性」を感じました。
ともすると、数学の世界は、定理や数式などを考えていくなかで新たな問いかけが生まれ、独立した「世界」にも見えるし、数学世界のなかだけでも完結できるだけの「世界」を構築しているにも関わらず、営みとしては対話を要求する(誰にでもわかる共通用語だから)構造が内在化している。数学はコミュニケーションの道具である、外に開かれたものであることが非常に伝わってきます。

<読後3「あわいの時代の論語」>

読後3
「あわいの時代の論語」

世界をどのように見ていくのかというか問いかけをきちんとやった人びとに仏陀、プラトンやアリストテレス等々の天才たちがいる。仏陀は、世界の仕組みと幸福の関係性を科学的思考(原因と結果に基づいて構築する)によって明らかにしようとした人であるし、プラトンは宗教が確立した「あの世とこの世」の2つに世界を分けることで認識を深めようとしたし、天才の問いかけは時間を越えて引き継がれる。この本で紹介される孔子も、争いがなくならないのはなぜかという問いに真摯に向き合った天才である。孔子は、コミュニケーション不全が争いの大本であり、不全が起こらないようにコミュニケーションルールを確立させようとしたのが論語である。と、ボクは思ってます。江戸時代に組織論として論語はじめ、朱子学といった形で幕府の学問として採用されたのも、幕府に都合良かった点があるにせよ、為政者にとってのコミュニケーション不全が国家の基盤を揺るがし、戦になることをよく知っていたからたとも言えます。

この本は、漢字の成り立ちから最近話題の技術的特異点シンギュラリティ、AI に至るまで話題が広がりながら、21世紀から見た論語の役割を再定義している本です。少々論理の飛躍かなと思わされる箇所もありますが、博識ならではの雑学が多く、情報量いっぱいの本です。特に漢字の成り立ちについての話が多く、とても面白いです。論語の解釈においても、心という漢字が生まれる前に成立した論語なので、心というものの再定義から始まる仕掛けはとても納得できます。では、いま論語をどのように位置付ければよいかといわれれば、「新たな論語」が必要とされているのかもしれません。

天職の作法 2

《天職の作法続編 音楽でなぜ心が育つと思うのか? 前編》
もうえらく昔に感じる大学院時代に議論した内容が、「音楽でなぜ人の心が育つと思っているのか?」です。音楽教育をやっている人のほとんどが、「音楽教育の目的は情操教育だ」というのですが、その目的をきちんと説明できた人は皆無でした。説明を聞いてみても、「音楽を聴いたら、心が揺さぶられるでしょ。心が揺さぶられるから、心で感じている。それを鑑賞したり、楽器で表現したり、体そのものを使って表現するから、情操教育なのよ」と言われるわけですが、しっくりきている部分と、しっくりこない部分がありました。

子供時代から、「歌歌ってピアニカひいて、リコーダーひけたら心が育つって、めちゃくちゃ無理あるな」と思ってました笑。確かに、いいところのお家の子がピアノを弾けたり、バイオリンを弾いたりしてたので、「音楽を習えることのできるお家」には情操教育できる余地はあるなと思いましたけど笑、そんなら楽器のプロはみんな人格者かと笑。そして、人の心というのが、「学校にいる間に、育てるものなのか?」ましては人格的にも完成していない、というか、(80パーセント以上の人がそうかもしれない)不完全人間である大人や教師によって「心は育てられるのか?」というそもそもの問いも生まれました。

 とすると、「音楽教育で心が育つのかどうか?」という問いに答えるのは、教育を考える上で、かなり有効な問いだなと思うようになりました。

まずボクが考えてみたのは、「音楽」そのものの性質です。ボクの発想だと「音楽は言語」であると考えています。そもそもなのですが、国語、数学、英語、音楽は全て言語です。

言語というのが、ある「意味」を持った記号と考えると、数字は、世界で最もシンプルな意味しか持っていない言語です。どんな国の人でも、どんな文化を持った人でも、1は1以上の意味がありません。

つまり、一つの意味しか持たないのが数字であり、誰もが誤解しようのない共通言語で世界を表現したのが「数学」となります。

それに比べ、国語や英語といったものは記号そのものです。また、単語ひとつ取っても、文章の前後の意図によって「複数の意味を持った記号」にもなります。そして、こういった記号を通じて思考するので、日本語は我々日本人の「OS」でもあります。

我々は、日本語(S+目的語など+V)を使って思考しますので、日本語の持つ「特性」が反映されます。
加えて、ひらがなやカタカナ、漢字、アルファベットを使って、文意を表現します。例えば、べんちゃー・ベンチャー・Ventureと使い分けると、その違いがくっきりすると思います。
日本語の特性では、動詞よりも前に、目的語など状況を説明するのが優先される仕組みになっていますので、何よりも、お互いの状況や使っている文意が正確に届きやすいようになっています。

*注 英語でも同じように整理。英語だとアルファベットのみで、S+Vという
動詞優先の言語になります。日本語と比較すると、動詞=行動を重んじる
OSになっています。

さて、一旦整理してみます。

単一解釈言語とも言える「数字」という言語と、多解釈言語とも言える「言語」の違いをみてきました。では、音楽は、どちらの言語になるのでしょうか?
<続く>

《天職の作法続編 音楽でなぜ心が育つと思うのか? 後編》
*また、コメント欄に感想いただけると幸いです。

前編において、「単一解釈言語とも言える「数字」と、多解釈言語とも言える日本語や英語のような「言語」の違いをみてきました。

 では、音楽は、どちらの言語になるのでしょうか?」
http://www.print-gakufu.com/guide/4003/

音楽は非常に不思議な言語です。ドレミファソラシドのそれぞれの音は数字と同じ、ドはドでしかありません。しかし、色々な組み合わせを通じて、明るい曲調、悲しい曲調など、何かしら意味を発するものではないのに、音と音を組み合わせていくことで、我々の心の中には、「感情」が勝手に湧き出てきます。

ジャジャジャジャーーーーン。

この文字だけ見ても感情は生まれませんが、ベートーベンの「運命」を思い出して、音として聞けば、感情が生まれてきます。これから何が起こるんだろう、とてつもない変化が起きるような感情が揺さぶられてきます。

つまり、音楽というのは、数字のように、1音1音には全く意味がないし、つなげたところで112324980のような無意味な数字の羅列に似たような「音と音の組み合わせ」にすぎないにもかかわらず、感情に変化が現れ、複数の解釈を想像しうる、面白い「言語」であるのです。

このことから、「音楽でなぜ心が育つと思うのか?」に答えていきます。

音楽というのは、この音楽を聴くことによって生じる「言語化されていない、無垢の感情」をベースに、異なる解釈を対話したり、無意識に生じる「無垢の感情」を楽器によってゆさぶったり、揺さぶられたりすることで、「自分自身の無意識と対話する」ことによって、心にダイレクトに関わるから、情操が育つのではないかと考えられているのだと思います。

そのため、我々が普通に親しんでいる歌詞(意味が作詞家によって加えられている)のついた歌謡曲を「音楽教育」であまり取り上げないのは、音そのものから湧き上がってくる感情の方がより情操教育に貢献すると考えられているからだと思います。
*逆に言えば、歌謡曲をもっと使うことができれば、音楽嫌い
の私のような人間は、馴染みやすいのですが。。。

このように考えてくると、我々は、国語(日本語+英語)、数学、音楽という3つ(4つ)の言語を学んでいることになります。更に言えば、言語の初期の頃を思い浮かべると、エジプトのヒエログリフにしても、漢字にしても、おおもとは「絵=イメージ」を形にし、抽象化させて文字にしたものです。とすれば、美術も絵を通じて解する言語という言い方もできます。

すると、このように9教科は再構成されます。

++++
無意識にアクセスする言語(音楽、美術)
意識にアクセスする言語(国語、英語、数学)
++++
これに
****
言語を使って社会にアクセスする(社会)
言語を使って自然にアクセスする(理科)
これらのアクセスによって生まれてきた
ノウハウや文化(技家)
****
そして、
〜〜〜〜
身体にアクセスする(保体)
〜〜〜〜

これら3つの大きな軸によって、自分と世界との関係性を構築していくのが勉強だということです。

しかし、大きな問題点があります。

この3つの視点を統合する、あるいは比較検討する「視点」がないということです。

これは、先の感想で指摘のあった「道徳がない」にリンクしていきます。

僕の視点でいうと、「哲学」(自分と世界を見ていく)という総合的な視点を学ぶ分野が日本の教育においては不足していたという風に考えています。

*逆に言えば、そのようなものがなくとも、同調圧力のしっかりしている日本ではそれほど必要がないと思われてきた傾向にあります。

では、この道徳と哲学というのを、「ルール」という視点で改めて、考え直して見たいと思います。

天職の作法 1

<何のために勉強をするのか?>

10年ぐらい前に、中高校生に話していた「天職の作法」という講演について、今日喋ったので、久しぶりに思い出して書いてみました。またご感想くださいませ。

+++
自分が教員時代に悩んでいた問いです。「勉強して、何の役に立つのですか?」。子供達に聞かれた時に、どうやって答えてよいものか。大人でも「勉強なんか役に立たないよ」という声をちらほら聞きます。

僕なりの回答は、「勉強ナメンナヨ、です、ハイ^^」(笑)

 基本となるのは中学の国数社理英技家音美体の9教科ですが、9つあるのは、「この世の中を9つの基本視点でみよう」という発想です。9つの視点で世界を切り取り、見ていくことで、世界と自分がつながっていることがわかります。そして、その学ぶプロセスにおいて、自分は何が得意で、何が不得意なことなのか、それがわかることで「世界と自分を結びつける視点」が見えてきます。
また、不得意なことがわかることで、明確に自分の進みゆく道が見えます。だから、役に立たない視点(教科)がわかるためにも、役に立つか役に立たないかわからない勉強をする必要性があるのです。

そして、この世界と自分を結びつけるもの、これがわかると、世界が様々な天才たちの遺産(数千年の歴史において名を残してきたイノベーション、世界を変えた発明)によって我々の生活が成り立っていることがわかります。火打石の発明を引き継ぐライター、車輪の発明を引き継ぐ車などなど、名もなき天才の発明によっても支えられています。

こういった天才の営みを引き継ぎ、つなごうとしてきた人類のタスキリレーの集大成が「教科書」です。

これらの天才として教科書に載るには、国民すべてに愛されてきた長嶋茂雄であろうと、あのイチローでさえも、近現代史として100年は名を残したとしても、1000年単位の視点から見る教科書には名を残すことができません。1000年の視点で見て教科書に残るとすれば、山中教授のips細胞の功績ぐらいではなかろうかと思います。それほどの天才の偉業が「教科書」には載っています。

僕の専門教科で説明すれば、社会科で学ぶことは、「どうやって平和に暮らすためのシステムが生まれてきたのか」、ケーススタディとしてこれらを共感、追体験し、どこかで歴史の意思決定が変えることができたのか、あるいは、少しでも変わることができたのか、その「物差し」となる目を養ったり、意思決定できるようになり、新たな「社会システム」を創造するために学ぶものです。

例えば、「投票」というルールを事例にしましょう。我々はこれまで、政権交代といえば、主としてやってきたやり方は「戦争」です。戦争ごとに政権交代が行われ、国の名前が変わったりしていきます。こういった戦争という方法を使わなければ政権交代できなかったのを、平和裡にできるようになったのが、「投票」というルールです。

一人一人が投票権を持ち、無血に為政者を選べることができるようになったのは、類稀なるイノベーションであり、我々は投票という「平和的クーデター」によって政権交代をすることができるようになりました。

この「投票」という営みの「凄さ」をわかるためには歴史の営みを知らずにはわかりませんし、この「投票」というルールを守り、有効に機能させるためには「投票にいく」ことによってしか維持できません。それゆえに社会科は勉強する必要があります。

そして、勉強というのは「タイムカプセル機能」を持っています。例えば、バイオリンを作っている人(音楽)がいたとします。ほとんどのバイオリンの形は似ていますが、全く違う形のバイオリンを創造しようとしたとします。そうなってくると、色々な形のものを試行錯誤するという方法もありますが、音波のでき方という視点(理科)で見れば、3Dプリンターで試行錯誤して(技術家庭)、改善ポイントが見えてきてアイデアを出す方に注力することができます。

こういった架空の事例でもわかるように、9つの視点(9教科)を学んでいることで、足りない視点が見えてくるし、どこから勉強しなおせばよいのか、どのように進めればいいのかがタイムカプセルを開け直したときのように、また勉強することが適切にできます。

ですから、勉強は今役に立たなくとも、「役に立つとき」が現れた時に、適切に「使える」ようになるためにも必要なことなのです。

もし「勉強が役に立ってない」という大人がいれば、それは「役に立てる場面を生み出せない生活」をしているのであり、勉強を必要としていない「退屈な日々」を送っているともいっているのに等しいのです。次の世代にタスキリレーをしようとしていない、天才たちの遺産にタダ乗りしているフリーライダーであることに気がついていないのです。

改めて、教科書に登場してくる天才たち、そして天才と天才たちの間で、漸進的イノベーションを繰り返してきた名もなき人々の積み重ねを感じて欲しいのです。勉強というのは人類が営んできた「イノベーションの追体験」です。我々の人類史を追体験していくことで、次世代にタスキリレーをしていくための「バトン」でもあります。

自らが大人になって、好きなこと、やりたいこと、たまたま偶然であったなどの動機のちがいはあれど「仕事」をえらび、その仕事に真摯に向き合う。仕事をつうじて、天才たちの遺産を次の世代に引き継げていくのが、皆さん自身の「天職」となるものです。その天職にしていくための作法が「勉強」という営みのことなのです。

+++

 

「地域社会維持発展法人」?

うちもこれになれるか?「地域社会維持発展法人」?
本当に1次産業での人手が足りなくなって来ています。海外からの研修生制度以上に、数を増やしていかないと、本当に基礎産業が壊れていきますね。
リンク先 https://mainichi.jp/articles/20170817/k00/00m/010/117000c

考えてみた、地域商社

<昨日考えてみた、地域商社>
昨日行われた香川大学ビジネススクールの同窓会with高松三越のワイワイ会(会の名称)。
地域商社というのが、どういうものなのか。昨今よく聞く中で色々考えるきっかけにしようと、昨日から初日として参加している青森・弘前大からきたインターン生と一緒に参加してきました(私自身は6期生でOBになります)。

色々な話をしてみて見えてきた課題は、

1)地域内の物品などを取りまとめして、どこの誰に売るのか?
国内マーケットが飽和している中、またふるさと納税とかぶ
る部分も多いので、何が同じで何が異なるのか。
2)海外向けを狙う場合、ジェトロでやっているものと何が違う
のか?個別企業がやっているのと、総合でやるものの違いな
のかどうか。
3)国内でみた場合、かなり売り方に工夫しないと、通販でもな
んでもそうそう売れない。すでに強いチャネルを持つところ
で売れたとしても、生産者や地域商社にどれほどの利益率が
残るのかわからない。それほどの製造ロットに対応できない
中小企業では、数売ってさばいて利益を確保という戦略は使
えない。ならば、どうやって仕掛けていくのか。

以上の論点を埋めるには、あまりにも時間がなかったのですが、これから地域商社を考える上で、どのような戦略を描けば良いのか、その課題をいただくことができました。

参考https://www.projectdesign.jp/201606/overseas-expansion/002896.php

8・30 日本縦断ローカルベンチャーフォーラム@上勝

8月30日、光と影の「山のビジネス化課題」について3人のカリスマが話を上勝町でします。
***

2017年度、ローカルベンチャーを推進する全国10市町村で連続的に行われる日本縦断ローカルベンチャーフォーラム。徳島県上勝町では、8月30日(水)に西粟倉からエーゼロの牧さん、東京からETIC.の宮城さんを迎え、いろどりの横石社長とともに「地域で稼ぐ」をテーマに講演とパネルディスカッションを行います。
*****

かつては建材の主力だった杉。そして誰もが儲かると信じ、国策として植えまくって日本中に花粉症をもたらした杉。いまや、土砂災害の被害を甚大にしている杉。この「まちづくりの総意」として植林された、戦後日本最大の「まちづくりの失敗」事例の杉。どんな課題解決案を示してくれるのか、点での成功が水平展開できるのか、ソレトモ。補助金突っ込んでも全国の多くの山々が維持管理に悩まされるなか、僕自身、今後の最大のまちづくりの難所と思われるうちの1つがこの課題なので、楽しみにしています。
○申し込み
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeoxKMUY98ZrkGvAr6jI1-o2NxbXsZgApEMXbkvTcioQ1ahIg/viewform

<日本経済新聞の密着取材中>

<日本経済新聞の密着取材中>
教員時代からお世話になっている日経新聞の密着グリグリイチャイチャ取材を受けております^^色々なことを聞かれるのは本当に楽しい^^9月にはお見せできると思います^^

《寛容性のある暮らし》

《寛容性のある暮らし》
神山における移住関係者の寛容性は素晴らしい。偶然出会った時のレスポンスがいいから、つながりが広がりやすい。そして、偶然の出会いにワクワクできる。こういった受け入れにたいする寛容性というのが、小さなコミュニティを往き来するコネクターを活発化させ、まるで呼吸するかのように街に人が交流でき、より交流を活発化させる。

いつからかうちには少なくなってきている、この寛容性。人口減少に伴う個人負担(例 草刈り範囲が増えるなど)が増えて忙しくなり、ヨソモノ、バカモノとコネクターとの間にさける時間的余裕が減ってきたのが構造的課題。なかなか悩ましい話です。

適度な暇をもて余す。

寛容性を考える上では大事だなあと思います。
街づくりの人類学

《休暇の読書》

《休暇の読書》
久しぶりの読書。ベーシックインカムがよくわかる「隸続なき道」が面白い。まさかニクソンがやろうとしていたこと、それを阻んだイギリスのスピーナムランド制度など、歴史や実証実験の話もあり、とても分かりやすい。うわさでは、作者はロビストとして意図的に仕掛けているとも言われているが、それも含めて面白い。ソトコトも後で読もう🎵
https://m.facebook.com/bunshun.online/posts/1782833092027698

<無事に7月12日アートインク津山、7月13日海士町隠岐国学習センター終えました>

最近、行くとこといくところ、熱心なところばかりで、本当に街づくりが定着して来たように思います。

とはいえ、街づくりには誤解も多かったり、アプローチについても未整理な状態が続いたまま、イベント疲労やゴールなき街づくりに陥りやすいことも多々あります。

そうならないように、何かしら整理された街づくり論が広がっていけばと思っています。

講演先の皆様、大変おせわになりました。重ね重ね御礼申し上げます。

<7月8日大阪教育大学での創業講座終了しました>

<大阪教育大学での創業講座終了しました>
これから三回続く大阪府商工会連合会の創業講座のキックオフセミナーで講演してきました。17年目を迎えるこの講座。そのうちの12年関わってきました。次回8月に富田林、柏原とあります。関西圏の方、無料の講座ですので、ふるってご参加くださいませ。
http://www.osaka-sci.or.jp/sogyoshien/index.html#kick

【津山】7月12日講演会

詳細、お申し込みはこちらまで

人口減少社会に突入し、ますます地方と都市で人の奪い合い、東京以外の人口サイズの小さな街が無差別クラスでの競争に突入している地方創生。是とも言えないが、否とも言えない中で街づくりを行なっている今、どのように街づくりをして行けばいいのか。
街づくりの先進挑戦地域として頑張っている徳島県上勝町、通称葉っぱの街で、起業家育成を通じて街づくりを行なっている(一社)ソシオデザイン大西と、津山市で街のインキュベーター、西粟倉でエーゼロ株式会社取締役として活動中の山田邦明氏とのクロストーク。この対談を通じて、本当の課題を浮き彫りにして、次の一歩に繋がる道筋を明らかにしていきたいと思います。
□定員 20名
□会費 3000円(当日徴収いたします)
□内容
 第一部 街づくりの基本戦略
     (一社)ソシオデザイン代表理事 大西正泰
 第二部 クロストークー本音で語る街づくりの実際のところー
       街のインキュベーター
       エーゼロ株式会社取締役山田邦明
      (一社)ソシオデザイン代表理事大西正泰  
□お申し込み
 本イベントページにてお申し込みくださいませ。

<御礼と精進の方向性>

<御礼と精進の方向性>
 今日は、各界の先達のみなさんのまえで、公共不動産のリノベーションについてお話をさせていただきました。
 「偶然の産物ではなく、科学的な街おこしを」といいつつ、おおざっぱな狩猟系、遊牧系、農耕系の分類方法や、ロジックの進め方、アイデアのほうに気持ちが行き過ぎて、一つ間違えば、大きな誤解を生むこと。また、いろいろなアイデアで街づくりを行っているが、誰のための街づくりなのか、誰が望んだ街づくりなのか、その意思決定の主体はいかに、と本質的な質問をいただきました。反省というより、プレイヤーとしての行動優先主義の批判については、とても意義深い学びでした。

 まだまだ、自分の科学的な街づくりというのは、検証に耐えうるものではありませんが、こういう営みを通じてしか学べない貴重な場となりました。お招きいただいた辻田先生はじめ、大学関係者のみなさま、パネリストのみなさま、来場いただきました皆様ありがとうございました^^

2.16 東大にて「公共施設のリノベーション」に登壇いたします。

2月16日に東京で、パネラーとして話をします。テーマは公共施設のリノベーションについてです。文科省の廃校利用で選ばれた上勝町落合町営複合住宅の事例をベースに”嫉妬”正義と公平”風穴と余白””遊び”というキーワードでリノベーションについて報告する予定です。

ERES 公開セミナー

公共施設のリノベーション

日時: 2017年2月16日(木)14:00-16:00(開場 13:30)
会場: 東京大学本郷キャンパス 情報学環・福武ホール(地下2階) 福武ラーニングシアター MAP
主催: 東京大学公共政策大学院

※定員いっぱいになったようです。

開催趣旨

 高度成長期の人口急増に伴って大量に整備された公共施設の老朽化が進む中、各地方自治体は今後の人口構成の変化や財政状況の見通しを踏まえながら、公共施設の再編・統廃合・長寿命化などを総合的・計画的に管理するいわゆる「公共施設マネジメント」に取り組み始めています。

 総務省によれば、今年度末までにほぼ全ての自治体において『公共施設等総合管理計画』の策定が完了する予定であり、今後各自治体はそれぞれの計画を遂行すべく具体的な事業に取り組んでいくことになります。

 しかし、これまでもっぱら公共施設の整備拡充を進めてきた自治体にとっては、逆に公共施設の再編や統廃合の経験は乏しいため、その具体的な進め方に不安を覚えているところも少なくないものと思われます。

 そこで本セミナーでは、公共施設マネジメントの具体的な手法のひとつとして、特に既存の公共施設を用途転用して利活用を図る「公共施設のリノベーション」にフォーカスして、その先駆的な取り組み事例に学びながら、公共施設をリノベーションすることの意義や可能性、課題について議論を深めていきたいと考えます。

※本セミナーは、寄付講座「不動産証券化の明日を拓く(三井不動産)」の研究・交流活動の一環として行われます。

プログラム

(司会進行)特任教授 辻田昌弘

14:00
講演I
『リノベーションによる旧市庁舎の有効活用〜立川市子ども未来センター〜』
  • 小山裕二郎氏
    立川市産業文化スポーツ部地域文化課主任
14:45
講演II
『遊んだ資産で“カザアナアケル”-嫉妬と公平、そしてワクワクのはざまから-』
  • 大西正泰氏
    一般社団法人ソシオデザイン代表理事(徳島県上勝町)
15:30
ディスカッション
  • 寺沢弘樹氏
    特定非営利活動法人日本PFI・PPP協会業務部長
16:00
閉会

 

『地域共創カレッジ:第2期受講生募集開始!』

想いを一にする全国5地域が共創して支援している地域共創カレッジ。

ぜひ以下の告知をお読みくださいー^^

****

『地域共創カレッジ:第2期受講生募集開始!』
http://tomotsuku.org/course/

今年もやります!地域共創カレッジ。

岡山県西粟倉村より、
 株式会社エーゼロの 牧 大介 (Maki Daisuke)さん
徳島県神山町より、
 株式会社リレイションの 祁答院 弘智 (Hirotomo Kedouin)さん
徳島県上勝町より、
 ソシオデザインの 大西 正泰 (Ohnishi Masahiro)さん
島根県海士町より、
 株式会社巡の環の 阿部 裕志 (Hiroshi Abe)さん
宮城県女川町より、
 アスヘノキボウの 小松 洋介 (洋介小松)さん

という地域のアントレプレナーと

学びの講師として
枝廣 淳子 (Junko Edahiro)さん、
井上 英之 (Inoue Hideyuki)さん、
西村佳哲さん

といったメンバーと一緒につくる、
半年間の学び場。

毎週水曜日の19時半から22時半で、20回以上にわたって
学びの仲間を創りながら進むカレッジです。

都市と地域の新しい繋がりに向けて
共創していく人材となっていくための
「学び続けるチーム」にむけて、

今年も頑張りますので、
ご興味ある方は、ぜひお申し込みください!

<香川大経済学部の受講生のみなさんへ>

<香川大経済学部の受講生のみなさんへ>
 授業後に検索しに来られると思うので、記事にしておきます。
〇上勝町について *ほかにも沢山あります。
 http://greenz.jp/2016/08/22/kamikatsu_travel/
 http://greenz.jp/2016/08/23/kamikatsu_socio_design/
 http://greenz.jp/2014/02/27/kamikatsu_department/
 http://greenz.jp/2016/04/25/kamikatsu_zerowaste/
〇上勝町のインターンシップについて
 http://www.irodori.co.jp/asp/nwsitem.asp?nw_id=9346
 http://socio-design.net/internship2
〇お勧めのほかのインターンシップ
 島根県海士町(観光)締め切りが今月末までです。 https://job.rikunabi.com/2018/company/r573591030/internship/
 宮城県女川町 https://www.asuenokibou.jp/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%…/

 その他ご質問あればいつでもメールください、よろしくお願いします。

<1月14日やります第2弾!!セミナー講師の強化書、実践編やります^^>

 セミナー講師の強化書、実践編やります^^
 前回参加されなかった方も最初に理論編の振り返りをやるので、大丈夫です。実際にどうやればセミナーが作れるのか、多くのセミナーを分析してきたおにぴメソッドを余すところなくお話します。シェア大歓迎^^ぜひ、お越しください^^ 
https://www.facebook.com/events/177828872687637/

<発酵ラボ、その他起業したい人求む>

<発酵ラボ、その他起業したい人求む>
 まだまだ、起業人材求めております。
 *何か田舎でやりたいことある人であれば、いつでも
  ご連絡ください。

 とくに、発酵関係はいろいろ事業化も含めて、広げていきたいので、発酵好きのかた、ぜひご一報下さい^^発酵ラボ、発酵カフェ、発酵ゲストハウス、これにファスティングを加えたものをやりたいんです。ご興味のあるかた、ぜひ。

 また、いま構想を練っているものに、「稼げる老人ホーム」「稼げるシニアハウス」というのがあります。

 新たな町営住宅構想ともつながるのですが、稼げる老人ホームのほうは、共同生活しながら、旬ごとの仕事をやることで、ホーム代を稼ぎながら、豊かに生きることができるホーム。病気や歩けなくなった際のホームは多いものの、まだまだ働くことのできるシニア層はたくさんおられます。そういった方向けのサービス。うちは町民だと平日は温泉無料なので、温泉付きホームになりますね笑

 またシニアハウスのほうは、定年から年金受給されるまでに、貯金を切り崩すことなく、数年間を田舎生活できるというもの。一階は、集合キッチンとスタンディングバーなどができるテナントスペース。二階以上は、シェア・キッチン&リビングを軸とした住居階。各層にゲスト用の部屋を置いて、友人たちを招き入れることができる。一階のテナントスペースを利用して、シェアカフェ、シェアバーもできるし、旬の農作業でも収入を得る。こういった仕組みのものができれば、面白くなりはしないかと。

ほかにも、渓流・ダム湖・山腹を利用したネイチャー系ドローンレース場、自転車専用ゲストハウスなどなど、アイデアを練っているのがたくさんあります。

 こういった仕掛けをいっしょにやってくれる個人、法人さんのご協力もぜひ。これは来年以降やってみたいものです。
 *教育系のほうはどうにかこうにか形にしてくれています。
  なかなかスピードが上がりませんが。

<勉強まとめ①狂犬ツアー「補助金悪玉論」>

 地方創生業界の風雲児の一人、狂犬(自称)こと木下斉さんの講演会に行ってきました。明快に課題も見えてきたし、狂犬どころか、非常にまっとうで誠実な論を展開していると思いました。
 そこから浮かび上がった課題をもとに自分の考えを整理したいと思います。
 
 *話の概要について森君のまとめが最適です。
  森君は経営コンサルタントですが、分析について
  徳島ではトップレベルのひとりだと思います。 https://www.facebook.com/teppei.mori.16/posts/1274807025895046?pnref=story 

 さて、僕が課題として受け止めた点は、以下の5点です。

+++++++++++++++++++++
①補助金悪玉論=街づくり自助論について
②成功事例の模倣戦略について
③街づくり=アセットマネジメントについて
④街づくりの主語問題ーデザインはだれが?ー
⑤正しいことを正しくいうとは何か。
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①補助金悪玉論=街づくり自助論について
 木下論の骨子はなんといっても、補助金=悪玉という話です。行政が行う街づくりは、どうしてもハードによるものが多く、そこでは成功よりも失敗がどうしても目につきます。

 そのなかで、自助していこう。その自助を妨げているのが補助金という存在だという話です。
 この補助金も何に使っているのかによって、ずいぶんと変わりますし、また彼が言うように、多くのものが補助金で逆に負の循環になっていることが多いのも事実です。

 例えば、公的インフラですが、道路はまさに補助金です。
 いまでこそ、いらないところまで道路を作って、そのランニングコストをどうするのかというのは大きな問題ですが、大都市から過疎まで、物流を支えてくれているのは、そこです。しかし、問題となっているのは、大型商業施設などの収益性が悪化したもの。どうにかして地方に人を呼び込むためにハード整備を道路や橋の次にどんどんやってきたわけですが、これがうまくいっていない。

 そもそも論なのですが、企業が仕事をやりたがらない点で、自助論は崩壊しています。つまり、自助したくても企業があまり利益にならないと踏んでいるからこその地方都市だからです。だから、自助にはおのずと限界があります。もし自助しやすいなら、すでに企業がどんどん進出しているはずです(だから代わりに公共投資の形で、自治体が無理して商業施設を立てることになるのです)。

 ということは、自助論だけではだめで、何らかのサポートが必要というわけです。その点で所得の再分配を進めるために公共投資をうまく使いながら経済を循環させようという提案を行ったのがケインズだと理解しているのですが、これも雲行きが怪しくなっており(一番最初の公共投資は自助論ありきなのですが、一定以上やると補助金ありきになるのと、隅々までお金が実は回らないという課題などがあるようです)、自助論もサポート論もどうすれば解決するのかという点では、いまだ解決しきれていない大きな問題です。

 そのなかで木下論をうまく活用するとすれば、所得の再分配で行うための「ハード」については、自助(きちんと最低限経済を回せるものにしましょう)を考えようと。そういった意味では、自治体の政策論としては、よく理解できる話です。もうハードで所得の再分配をするのは考えものだという話です。

 そのなかで、成功例として取り上げられているのが、岩手県紫波町のオガールの事例です。

 紫波町に実際にいってきましたが、オガールは、「官民連携のイオン」というのが僕の解釈です。最強、最適解の商業施設を集めたものがイオンですが、オガールは、街づくりの最適解として、公園、図書館、体育館、宿泊施設など(周辺に住宅街)も織り交ぜて集積させた「総合型施設」です。イオンと違い、自治体の「身の丈サイズ」に合わせたものだということです。ですので、人口3万人のサイズにあったものですから、財務バランスはよくなります。
 *イオンの例は悪い意味で使っていないので、誤解なさらずよう
  に。イオンは景観としては悪いですが、商業施設としては大変
  うまくできています。

 しかし、イオンは私企業ですから、できるだけ多くの顧客を集めるために、全国クラスの店舗を集め、そして大きなハードにします。人口サイズから割り出すので、行政単位での集客は考えていません。だから、行政単位でみると、一気に地元の商店から顧客を奪います。もちろん、全国区の企業が参入してくるわけですから、とうぜん、全国区の地元商店もしくは、オンリーワンの商店しか生き残れません。

 また、過疎の地域が同じロジックで身の丈サイズの官民連携のハードとソフトを作ったとしても、これは当然無理な話で、木下論でもっとも有効に効くのは人口5万人以上レベルの地方都市で、なんにでも通用するロジックとして聞くのではなくて、ミドルサイズの行政単位をもとにした処方箋として聞けば納得がいきます。

 では、過疎地ではどうすればいいのか。

 確かに、過疎地でも同様に自助論でやり遂げるのは望ましいと思います。しかしながら、過疎地は、人口規模以上のお客様を引き寄せることのできる店舗でないと、難しいです。上勝や神山の事例でも、実際のところ、顧客分析をすれば、8割は町外のユーザーだろうと思います。それぐらいの顧客層を持たないと、やってはいけないからです。そういった意味で、オンリーワンの事業をどんどん増やしていく必要性があるのですが、ではオンリーワンの事業を営むことができるような起業家人材を引き寄せるには、どんな仕掛けが必要なのか。
 ここに一つは「投資として補助金」はあってもいいのではないかということです。
 僕がこれまで取り組んできたものも、公共の遊休資産をリノベーションして、<起業したくなる場づくり>をしてきました。リノベーションの三分の一から半額程度、ものによって8割該当するものもありますが、基本設計としては、投資した金額分で1年間売り上げられる規模のものしか取り組まないというルールを引いています。例えば、1000万円のリノベーションをしたとするならば、年商1000万円以上の事業規模のものしか作らないという考え方です。そして家賃、法人税でコツコツ町費に回していく。仮に家賃5万円ならば、1年間で60万円。15年払えば900万になります(法人税などを含めれば1000万円を超えます)。こういった投資の呼び水としての補助金はありうるだろうと。そういう面では、木下論の自助論の延長線でも考えることができるのではないかと考えています。
 
 そういった面で、補助金100%悪玉論というよりは、利回りの考え方次第で、投資にもなりうるものだと思うので、ボク自身は、限定的補助金悪玉・善玉論になります。

<続く> 

<勉強まとめ②成功事例の模倣戦略について>

 企業による模倣は普通にありますが、地方創生の文脈だと、模倣戦略は悪玉によくやり玉に挙げられます。

 確かに、道の駅やシェアハウス、ゲストハウスにサテライトオフィスなどなど、成功事例の模倣は枚挙にいとまありません。しかし、企業だと模倣は追試による進化の前段階として見られたり、FC展開として模倣は肯定的に考えられるのに、地方創生では、悪玉になることがほとんどです。代わりに、地方創生ではオンリーワン戦略が必勝の策として語られるわけですが、本当に模倣は悪玉なのでしょうか。

〇いい模倣と悪い模倣
 いい模倣として最もわかりやすいのは科学です。科学は、だれでも、同じ条件で同じ手法なら再現できるものを「科学」と呼びます。ということは、<模倣が前提>です。逆に言えば、模倣できないものは、科学ではありません。
 ということは、街づくりにおいて模倣が悪玉に挙げられるのは、同じ条件も環境もそろっていないのに、結果だけまねるからだと思います。言い換えると、結果だけほしくて、<同じ環境を用意していないのにも関わらず模倣するのが悪>だということです。

 例えば、上勝での葉っぱビジネス、神山でのサテライトオフィス。どれもまねできそうです。しかし、葉っぱの後続ランナーはいません。多くの模倣希望者がいるのにも関わらずにもです。
 ということは、他には用意できてない<葉っぱビジネスのための環境>があるということです。神山のサテライトオフィスは、模倣しているエリアも多くありますが、実際のところ、神山ほどうまくいっている地域はまだ出てきていません。ということは、サテライトオフィスがうまくいくための<環境>があるはずです。
*このうまくいっている環境については、別に譲るとして。

 ということは、街づくりの成功事例の<環境要因>をきちんと分析し、環境をまずは用意しなければ、模倣戦略は、形だけのものになってしまうというのは、当然のことです。

 そういった面で、街づくりをきちんと科学として再現性のあるものとしてできているのならば、ボク自身は、模倣すればよいと思っています。ただし、単なる模倣では集客できないので、何かしらのプラスアルファを加えること。例えば、思い付きですけど、いろいろな焼き物職人を集めた焼き物街(全国のあらゆる焼き物手法が一か所で学べ、そこで新たな焼き物技法が磨かれる)とか、やりようでいくらでもできそうです。

 あと、サテライトオフィスの例でいえば、その真骨頂は、工業団地の工場誘致と違って、「田舎を面白がれる人材が集まった」のであって、家賃が安いからとか、自然がいいから都会のIT系のオフィスが集まったわけではないのです。<東京よりも面白い>から来るわけです。
 ですので、都会のオフィスを持ってくるのを模倣してもダメでして。つまりは面白い人材が面白いと思える街になってなければ、つまらない街にいくら企業がきても、たぶん帰ると思います。
 
 そういった意味では、街づくりの模倣戦略とは、東京よりもおもしろい環境を作るところから始まるような気がします。まあ、それが一番難しいわけですけど、それがオンリーワン戦略の本当の真相だと思います。ただ<そこでだけある産業>じゃなくて、<おもしろい産業>だから人が来るのだとおもいます。

<続く>

<勉強まとめ③街づくり=アセットマネジメントについて>

 木下論で面白いのは、街づくりの定義がアセットマネジメント(地域の資産価値を上げる)という点です。
 これはポートランドなどアメリカの街づくりの基本戦略でよく見られるもので、日本ではなじみの少ないものです(三菱地所など不動産大手の企業はこういう考え方だと思います)。

 日本でなじみのないのと、アメリカはじめ先進国でこういった考え方をするのは、いくつか理由があると思います。
 一つは、日本では、最初の都市といえば平安京以降(飛鳥浄御原宮とか藤原京はマイナーなのでおいといて)、<街づくりの総合計画はお上がやってきた>ものです。お上には貴族や武士だけでなく、寺院や富裕層も含まれます。これは海外でも同じで、基本、街づくり戦略というのは、支配者の特権でもあるわけです。
 ところが、海外(大陸文化)と日本の大きく違うところは、侵略の濃度の違いです。侵略が繰り返し行われているところほど、防備のない街づくりは非常に危険であり、また侵略ごとにリセット機能が働くので、街づくりを民衆自身も意識せざるを得ません。日本では遷都によってリセットしているので、民衆そのものに蓄積が少なかったように思います(京都はその点長く首都でもあったので、街づくりのノウハウが残っているように思います。いちげんさんお断りもそういう意味では、街の防衛本能だと思います)。

 また、街づくりというのは基本<平野の発想>です。日本のように街づくりをできる平野は国土のわずか3割。そのなかでも、大都市に見られる都市づくりに好条件の場所は5%程度の面積と非常に限られています。そうすると、異民族によるリセット機能が働かず、街づくりを実施できる場所が少ないことからすると、なかなか街づくりというのは国土上庶民のものになりにくく、なったというのは現代のみといえるかもしれません。
 そういった歴史的背景からみても、平野部で、とくに広大な開拓地(と呼んだ侵略地)であるアメリカで、多くの街づくりの試行錯誤が行われてきたのはある意味当然のことだろうと思います(アメリカによる日本占領も壮大なアメリカによる国造りの実験だったと現在から振り返れば読み取れます)。

 そうなると、木下論で主張しているアセットマネジメント(資産価値を上げる)というのは、企業は家賃収入や不動産価格に跳ね返るので、地域の資産価値上昇に経済的モチベーションが大きくあがります(つまりは、人口の多い都市に適した考え方)。
 が、残りの7割近い山間部をもつ場所では、林業資産が優良資産であった時にはよかったですが、現在では、山間部の資源価値上昇を望むのはなかなか容易ではありません。

 そうなると、平野のアセットマネジメントと山のアセットマネジメントの二つは最低限考えられるのではないかと思います。
 
 山のアセットマネジメントを考える場合、平野にはない<観光による資産価値上昇>と、現在は不良資産になっている木材を優良資産に変える<林業による資産価値上昇>が主軸になってくると思います。これに、田舎のもつベーシックインカム(食べ物を贈与しあったり、公共インフラを集落で行うなど)<互助文化の高い資産価値>、さらに人口が減って利害関係者がへり、新たな施策を打たねば滅んでしまうという危機意識に支えられた創造性を求める文化<文化の高い資産価値上昇>などが考えられるのではないかと思います。この4つをうまく吟味しながら、山間部のことを考えていくのも同時に必要ではないかと考えました。また思案中です。。。

<続く> 

<勉強まとめ④街づくりの主語問題ーデザインはだれが?ー>

 

 さて、問題は、だれが「街づくりのデザインを行うか」という話です。

 木下論でいえば、少数精鋭を利害調整の難しさをもとにお勧めしています。僕自身も、この考え方に近く、少数精鋭で練りこんで提案をだし、住民の人と練りこみ、最後は投票(ネットでいいと思います)してもらう(一回一回首長の選挙をやるのは税金の無駄なので)のが理想なんですが、みんながみんな公共性の観点から考えているとはいいがたいですし、住民(その時だけ住んでいる)が決定することに関しても、西部邁氏の論ではありませんが、過去の住民(が作り上げた文化)と未来の住民(禍根を残さない、未来のためになるもの)との対話によって決める姿勢を持たねば、意味がありません。
 悪い事例でいえば、杉だらけの山林、FCだらけの郊外の風景を見てくれたらいいように、地元住民だから最適解をうみだすとは到底言えません。逆に外部の専門家だから最適解をうめるかといえばまた別で、いろいろ大企業の提案などを聞いていても、アメリカや日本の先進地域の焼き直しに過ぎず、<成功事例のパッチワーク>に過ぎないことも多々あります。

 そういった意味で、内部と外部の相乗効果を狙うしかないのですが、内部を大事にしすぎたものも、うまくいけばいくほど利害が生まれるので、どこかで衝突のほうが先立ち始めるし、誰かが街づくりで得し続けたり、損し続けたりすると、一気に崩れていきます。

 例えば、街づくりの先進地域と呼ばれるところは、志の高い先達のおかげで創造的環境が保たれていますが、うまく続けば続くほど利害衝突が起きやすくなります。いつも危機意識があるからこそ創造的なんだけれども、うまくいけばいくほど非創造的になっていきます。*街づくりは、うまくいっちゃいけないんです笑

 だからこそ、先進地域はどこも街づくりの担い手層が一番危機意識を持ち、そうならないように持続可能な発展を遂げている証左でもあるのですが。
 
 また、外部に依存するのも悪い方で例えれば、つねに良薬を求め、即効性の高い効果を期待する<専門家依存ジャンキー>になっていく場合もあります。これはとどまるところ、<信念なき専門家利用>であり、専門家を利用する立場にいなくては、街づくりの主語は住民から失われていきます。

 そういった大きな課題を考えつつ、いつも悩みまくっているというのが正直なところです。

 <続く>
 

<勉強まとめ⑤正しいことを正しくいうとは何か。>

 木下氏が自らのことを「狂犬」と呼ばなくてはならない理由を考えると、重たくなります。
 というのも、彼は真っ当に論じているだけで、全然、狂っていません笑。
 つまり、きちんと論じるのがなんか難しいんですね。。。

 たしかに、言い方もあると思います。

 例えば、
  ①お前は禿げだなあ。
  ②もてんやろ?
  ③身なりきれいにして努力せえよー
 これ、
  ①事実 ②事実 ③改善策の一つとして正しい。

としても、ブスやなあとかブサイクやなあというのをストレートにいうのがはばかれるのと同じで、街づくりでもなんでも、似たようなテイストでいうのは、まあ、問題あるわけです。

 とはいえ、装飾しすぎてもいけないし、的を射ていないのも問題なので、

 ①(もとがいいのに)もったいないなあ。
 ②赤色のシャツとか似合うと思うけど。

ぐらいの感じがいいかもです笑 
  
 つまりは街づくりの問題にしても、批評家目線で切るのでなくて、提案・代案中心主義(案でもって批評する)ほうが良いように思うのです。

 ということをいろいろ考えたわけです^^
 *実は一気に書いたので、ここでへたりました。。。

 木下さんありがとうございました。

 ただ、また今度の話にしますが、産業づくりの話と、街づくりの話がごっちゃになっているところがあるので、それはまた後日。
  <終わり>   

《概念探究学習法に思いをはせる》 

20年以上前に学んだ内容がバカロレアとして復活したり、ジグソー学習法として盛んになったり。あの頃の猛勉強が未だに役にたっていることを思いつつ、言葉は変えるものの、結局、教育史や授業論の蓄積を活かしきれていない、というか進歩の遅い教育のスピードにもいらだちも覚えつつ。最近思うのが、もう一度最初の指導要領が掲げていた問題解決学習法が、まさにソーシャルデザインだなと感じます。戦後の、生活そのものの地域課題に取り組むという問題解決学習から、人口減少による新たな街のデザインをするというプロセスは、ネオ問題解決学習の予感を感じさせます。