「幸福の系譜学」(3)

<「幸福の系譜学」(3)>

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日常を祭り化する
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 祭りが一つの幸福装置だということはわかりましたが、やはり資本主義というのはより便利にや快楽提供を本質としているので、1年に1回なんていうのは野暮な話で、やはり日常そのものを幸福装置に変えたいわけです。

 すると、”日常の祭り化”が始まります。それも都市であればあるほど人が多いのでそうなりやすい。
 
 ショッピングモールは非現実的な買い物が心地よくできる空間になるし、施設も非現実的にオシャレになっていく。居心地のいい空間というよりも、刺激を与える空間に作り上げていくわけです。インスタ映えなんてのもそれで、これまでになかった盛り方や見せ方が、好まれるのはそういった根源的背景があるからです。
 
 日常を祭り化することで、人は幸福になる。けれども、日常を祭りで侵食すればするほど、その効果は低減してく。ぶっちゃけた話、飽きてくるし、刺激にならないわけで、刺激の麻痺化=幸福の停滞につながっていくわけです。人は「慣れ」るように作られているので(いつも不安定だと不安になりやすいので)、これはどうしようもない帰結なんですね。

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旅は、人を幸福にする
(越境=異文化体験)
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 そこで、我々が古来より幸福装置として馴染んできたのが、旅(越境)です。旅に行くと、文化フレームが異なるので、すべての日常が刺激されます。言葉も違う、食べ物も違う、生活そのものが違う。そして旅する人を受け入れるのも、同じように。

 だから、人は移動していくわけです。

 また、新たな学びを越境して行うのも同じです。修練すると慣れが発生しやすいけれども、まったく異なる仕組みの学びをすると、また新たな刺激に包まれます。いつも図書館に通う人がダンスを覚えたり、ランニングをしたり、大会にでたり。体を動かすとドーパミンが出るので、刺激がますわけです。

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恋愛をやめる理由
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 ここで日常の祭り化が進んだ都市部で恋愛が減るのはなぜか、出生率が減るのはなぜか、田舎で出生率が高いのはなぜか。これにも理由があります。
 それは日常が祭り化すると、恋愛以外にもたくさんの刺激があり、恋愛ジェットコースターはすぐに不幸にも転ぶし、好きな時に欲望を満たすということが難しいし、外から見ていると、「好き→コミュニケーション→どたばた→終わり」というプロセスの繰り返しに見えるので、ほかのものに変更可能にもなっているのではないかと思うのです。終わらずに結婚を選んだとしても、また好きな時に恋愛してというのが自由にできないため、それならば、やっぱりともなりやすいのです。だから、都市部では、恋愛はそれほど希少価値の高いもの出なくなりやすいし、田舎では、逆に、恋愛ほど、刺激を与えてくれるものはないので、そこに行き着きやすいわけでもあります。

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現代の幸福の仕組みは?
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 現代の都市は、まさに幸福装置であふれています。

 幸福装置に溢れると、幸福でなくなるという矛盾にも晒されています。そして、街が科学で作られれば作られるほど、非日常(虚構)になるわけで(虚構世界のディズニーランドや遊園地が強いわけ)、虚構であるがゆえに自然を隠していくため、災害にはもろい体質をもってしまいます。

 その虚構剥奪体験が、阪神大震災であり、東日本大震災でした。

 我々の街づくりは、幸福を目指して、行ってきたものの、幸福装置ばかりになると麻痺し、また虚構度を上げていかざるを得なくなる体質に陥ります。完全を目指して、止めようもない成長に突き動かされます。
 
 絶対も完全もないにも関わらず、我々はやめることができない幸福装置に囲まれています。

 では、その答えを我々田舎が有しているのでしょうか? 

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”成長民族”(都市住人)と
”日常民族”(いなか住人)のハザマを行き来して
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成長を是とする成長民族たる都市の住人と、日常のメモリを小さくすることで豊かさを得た田舎の住人。

 日常のメモリでは満足し得ない田舎の住人は、都市に流入していくし、成長を是とする幸福装置に疲れてしまった都市の住人が田舎へ流出していく。

 しかし、そもそも成長を志向していた人々が田舎の成長メモリに満たされることはないし、成長民族のいうような刺激溢れる里山を思考はしていないなかで、流入と流出はどうしてもアンバランスなものにならざるを得ません。

 また、田舎とて、成長メモリを小さくした分、何よりも刺激になるのは、人間関係になります。だから、互いのことがきになるし、自分たちより成長している人を見ると、メモリを大きくしようとしているので(自分たちが成長していないことがバレてしまう、いちおう成長はいいものとして理解されてはいるので)、自分たちと同じ成長メモリに戻そうとします。メモリが狂ってしまうと、田舎の幸福装置がうまく機能しなくなくなるからです。(いわゆる世間の論理、)

 とはいえ、田舎も都市化を余儀なくされますが、高度経済成長期のような日本列島改造論(田中角栄)が終わったものの、日本のように財源がないなかでは、その都市化にも限界があるし、そもそも、幸福装置の根源的な問題は解決されていません。

 そのなかで、田舎に来た都市住人、とくに新たな成長原理を求めてきた人には田舎はあまりにも成長する部分が限定的であり、自然と向き合うことでの成長原理を伸ばさざるを得ません(田舎に唯一ある、都会にないもの)

 つまり、田舎にとっての成長原理を作らなければならないし(それすらも怪しいですが)、それがまた都市が陥るような幸福装置と同じであっても結論は同じになってしまうし。

 では、次の展開として、何があるのか?

 その答えは、また講演で笑 まだきちんとできてないだけともいう笑

<終わり>