「幸福の系譜学」(2)

<「幸福の系譜学」(2)>
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宗教と科学の分裂〜ダーウィンの登場〜
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 現在の私たちの考え、つまり宗教よりも科学を絶対の起点にしていこうとする考えは、まさにダーウィンが決定打を与えたものと言っていいと思います。
 「人は猿と同じ先祖をもつ」って、まさにタブーじゃないですか。神そのものの証明をしてきたのに、いきなり神の設計(旧約聖書、新約聖書)とは異なる、神が七日で作ったわけでも、なんでもなく、すべての生物が、それぞれの進化によって成り立っていると。
 イスラムだって同じルーツなので、仏教はその点、人として仏になるアプローチなのでいいですが、神の設計だと思ってきたことが、実は単なる偶然の産物(たまたま生き残ってきたから、たまたま論理的に仕組みができてきた)という、強烈な現実を突きつけたわけです。

 ここで、宗教と科学は分裂を方向に歩み始めます。が、とはいえ、科学は不幸を説明できたとしても、なんにも人を癒さないため笑、結局人は、宗教と科学をともに愛していくことを選んできた20世紀以降だったのですね。

 しかし、結局のところ、宗教以上に絶対的に不幸の理由を説明できるものはなく、また科学以上に信じられそうもないし、このようなどっちつかずの状態に我々が置かれてきたのですが、最初に戻ると、我々の本来の動機は、不幸の源である「絶対」への動機(これがわかれば、不幸になっても理解できるので、解決方法が考えられ、幸せにもっていける)は変わらずもっているということです。

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 絶対への願望
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 このように紐解いていくと、幸福というのは、その幸不幸を生み出す源の「絶対」がキーになっているというのがわかります。

 つまり、「不幸は、絶対でないから生まれる」わけです。幸福になるためには、絶対に出会わなければならないのです。

 言い換えると、人は不完全ゆえに不幸になるのであり、絶対が導いてくれる方向に「完全になろうとすることを求めるのが、幸せ」という式が導かれます。

 このことはつまり、完全になろうとする「成長」「進化」ということが、我々が幸福になるのに必要なモチベーションだということです。成長すると、我々は完全(絶対)に少しずつ近づくので、幸せを感じやすいわけです。意外な組み合わせだと思いませんか。
 
 もっとわかりやすくというと、仕事ができなくてつらいなら、仕事ができたらつらくない。スポーツで勝てないのは、上手じゃないから。モテないのは、美しくないから。嫌われるのは、よくない性格だから。。。。

 そう、だから、成長しようとするし、成長すれば新たな課題が生まれて、また不幸を感じるけれども、前の不幸とはおさらばできるわけです。
 
 こういった成長が幸福を作るという心理は、宗教とくっつくことで、「この世での成長」が「あの世への切符」につながるという信仰と結びついたり、この世での成長が財になり、寄付をすればするほど、「あの世に近づける」(浄財)ようになっていくわけです。
 *まさに、マックスウェーバーがいったロジックです。

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 成長レースに乗っかるのもキツイ
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 ずーーーと成長するって、やっぱりキツイじゃないですか。不労リターンで、やっぱり楽したいし、努力による信用資産たくさんもつのも、日頃の欲を満たせないので、辛すぎると。そんな修行みたいな生き方できねーーという人が選んだ戦略は、「成長をやめる」でした。

 では「成長をやめる」場合、何で幸福を感じるのでしょう。
「ひとの歴史」では2つの方法を実践してきました。

 一つは「成長の測定メモリを小さくする」(ご飯を食べて幸せとか、お風呂に入ると幸せのような)=時間を遅くさせるというやり方です。意外と平凡な生き方がすばらしいというのは、幸福のメモリをちょっと小さくしてみたら、という発想です。確かに、測定メモリを細かくみていくと、意外と幸せなんですよね。別にそんな大層なこと目指さなくても、ビール一杯でもフワーートしますし、大きなお風呂や景色のいいところを見たら、やっぱり幸せになれますし。幸せを感じる”物差し”をいじる楽しみを覚えたわけです。

 こういった物差しがめくるめく変わる日常って、みなさん見に覚えありますよね。

 そう「恋愛」です。

 メールが来るこないで一喜一憂。ご飯を食べる場所で一喜一憂。二人の世界ではまさに幸不幸のジェットコースターで、周りから見ればなんの杞憂もない笑

 これってまさに幸せ生産装置ですよね笑

 そう我々は昔から、恋愛をもっとも身近な幸福を生み出すもの、不幸を生み出すものとして愛してきたわけです。だって、恋愛によって感じる自分の感情はある意味で絶対ですから^^
*これがデカルトのいう「我思うゆえに我あり」なんですけど。
*あと、このあと無意識の発見があって、さらに無意識が意識に先行することがわかって、これまた絶対でないことが科学によってわかったのも皮肉なことですが。

 とはいっても、やはり、飽きちゃうわけです笑 異性間では、恋愛のピーク到達度が異なるし、測定メモリがちっちゃいので。”どかーん”とめくるめく快感に浸るようなのもほしいわけです。そこでデートという刺激や、もっと刺激が生まれ、かつ自分で幸福を生み出した手応えってやっぱり望むことをやめられないわけです。

 それがもう一つである「幸福の日を作る」(祭りです。この日だけ、不幸のもとになるルールを取っ払うことができる)というものです。 
 
 祭り(幸福の日)って、よくできているんですよね。

 基本的に、太陽と月と神、それと種まきと収穫、これが基本ベースで日が決まるんですね。だから、祭りをやると「絶対たる太陽も月も神も喜ぶ」、私たちも喜ぶ。ルールを決める神が喜ぶなら、その日は無礼講なんですよね。そして、種まきは豊穣への祈りであるし、収穫祭は、豊穣への感謝。まさに、不安だったものが満たされる日が祭りなんです。

 つまり、私たちは、成長メモリを小さくしたり、大きくしたり、幸不幸の源泉である「絶対」と一つになる祭りなどを通じて、幸福を生み出そうとしてきたわけです。そして、祭りの作り手が自分自身であり、地域の住み人であり、祭りを形成していく中で、仲間との一体感、神への一体感を感じることで幸せの絶頂に導かれるわけです。

 こういった幸福の起源をみていくと、私たちがいま、やっていることは自然と見えてくるのです。
 
<続く>