昨日は松山にて、フィールドミュージアムのパネリストに
いき、また昨晩大阪時代の教え子がやってきて、かなり地域
再生にかかわる「次の一手」が見えてきた。
まずは、フィールドミュージアムについてから、考えてみる。
フィールドミュージアムとは、「屋根のない美術館」とも
意訳できるもので、ハコモノ(閉じられた空間)のなかに静態
して展示する、これまでの手法と異なり、街のいたるところを
ミュージアムとして再定義し、日常の中にアートを取り込む
手法のことを指している(と思う。門外漢なので)
これまでのミュージアムが、閉じられた空間で行っているので
「非日常」かつ「冷凍状態」(比ゆですが)で見ざるを得なかった
のに対し、フィールドミュージアムは、「日常」「なまの状態」で
生きたアートを取り込み、鑑賞者を待ちのいたるところへと、回遊
させる機能を持った、おもしろい取り組みだ。
美術史の流れから言えば、金持ち・権力者たちの「栄華と生きた証」
のようなものが、アートにはきっても切り離されないものが多く、
「庶民のアート」とは一線を画するものであったのは間違いない。
社会が豊かになり、成熟し、庶民の生活が「歴史上の金持ち」と
それほど変わらなくなったことから、「庶民の金持ち化」が結果
として起こることで、アートとの距離がかなり近づけるように
なった。このことが、権力者や金持ちの快楽の提供として担って
きた美術を根本的に変え、「日常でのアート」ができる環境にも
なったと、やんわりはいえるところまではきた。
そのなかで、僕の持論である遊牧民(わくわくを第一行動原理として
動く人々)がアート間を回遊することで、遊牧民が生き易い街になる
というのが、おもしろいところです。
ただ、このフィールミュージアムの難しいところは、
①ワクワクするアートとは何か?
②アート同士を結びつける「入り口・拠点・体現物」が
きちんと遊牧民をひきつけ、回遊の誘導機能をもっている
のかが非常に重要です。
いくらアートがよくても、そこに「人」が介在しなければ
ぜんぜん面白くもないですし、人と人が動く仕組みを拠点が
もっていなければ、なんにも効果的には動きません。
ただ、「アートが散らばっているにすぎない」だけです。
瀬戸内芸術祭のように、島全体がアートになるのも、
フィールドミュージアムの発想と同じですが、コンセプトを
統一し、盛り上げる期間も限定し、イベントとして盛り上げる
からこそ成功になっているわけですが、「日常のアート」に
とがったものは出しにくく、また、伝統的なアートをついつい
取り込んで「どこかで見たアートの風景」だったり、伝統アート
を「残す」ほうに目が向いて、現代の文脈ではつまらないものに
陥りやすいという難しさもあります。
そのようななかで、上の課題に取り組んで成果をだしているのが
八戸ポータルミュージアムの事例です。
*この事例をもとにパネラーででていました。
(続く)