番外編 教育にかかわること①

ボクがもともとは教師だったと言うことをどれほどの
ヒトが知っているかはわかりませんが、今日はちょっと
教育のお話を。
*ある友人に言わせれば「先生臭」がするらしい笑。
脱臭剤をふっているつもりが。。。

さて、なんでこんな話しをするかと言えば、前段の
地域再生は教育を内包させることで、持続可能な地域に
なり得るという話しをしたからです。

といっても、ただ単に後継者を育成することも大事だ
なんていうシンプルすぎる話しではなくて、実は勉強
ぐらい人生を豊かにしてくれるものはない、そのことを
お伝えしようと思ったからです。

<世界は、思いの外、よくできている>

僕らが学んできた事って、とりあえずは、主要5教科に
実技教科3教科。いうならば、世界を8つにわけて学んできた
わけです。

国語(英語も含む)数学というのは、言語によって
世界を見ようというアプローチです。
国語には、それぞれの母国特有の構造を持ち、その
言葉で思考するワケですから、その成り立ちや特性、
使い方には、その母国語を使っている人々の原点が
含まれています。

例えば、漢字、ひらがな、カタカナと言語表記
でき、さらに擬態語や擬音、漫画の吹き出しによく
でてくる、謎の音喩など、こんなに豊かに状況を
現すのに腐心している言語はそうそうないと思います。

空気を読むために、その場を正確に表現しうる
細やかな言語表現。これが日本人の積み上げてきた
文法構造であり、我々の行動を司っている行動の文法とも
いえます。

数学はそれとは反対に、意味を1つしかもたせない
言語。日本人だろうと何人だろうと、1は1として
理解される、文化を内包してしまった各言語に比べて
圧倒的に論理を説明するのに便利な言語です。

この言語を使えば、世界のあらゆるものを表現できる
便利な道具として、我々の「道具」そのものとも
いえます。

こういうふうに、一つ一つの教科には背景が有り、
そのアプローチを追っていくことによって、私たちは
数百万年かけて作り上げた「人類の英知」を学ぶことが
できるわけです。

つまり、勉強とは、「人類の歴史そのものの追体験」
なわけで、特に教科書に精選されている内容は、もっとも
影響力の高いもので、まさに、かつて生きてきた人々の
「生きた証」でもあります。

身の回りの道具もすべて、もう一度見なおしてみると
テレビもリモコンも炊飯器も冷蔵庫もエアコンもなにも
かも、どんな理屈でできているのかさえわからない
「人類の英知」でできあがっているわけです。

とすれば、我々も「後世の子供達」に「ご先祖の生きた証」
を残していく。そして、脈々と受け継がれてきたバトンを粛々と
受け継ぎ、さらに、自分たちが新しく作った「生きた証」を
重ねていく。

その営みこそ、「我々の生きる意味」であり、この生活を
与えてくれた先祖への「感謝」を現すことなんだろうと
思います。

そして、とどまるところ、ボクが何度もいっていることでは
ありますが、生きた証を産むためには、イノベーティブで
あり、引き継ぐ点ではコンサバティブであり続ける
こと。この相矛盾する相互作用を意識しつづけること。

これが「勉強」なんだと思うんです。

だから、勉強は、自分を幸せにするものばかりでなく、
後世の我々の見知らぬ「子供達」を幸せにするための
ものなのです。
続く

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