<街づくりの生と死を考える>


 今年に入って、防災の哲学を考えている。

 基本、防災は災いを防ぐという思考なので、災いのポジティブなところは考えないし、考えると、言霊思考が現役なので、不吉過ぎて喋れない。本当のことでも不吉なことは、言霊にしてはいけない。だから、非常時のことはいっさい考えない。そして、非常時の話は、ぶっちゃけた話、「問題がでか過ぎて、いや、問題解決が無理すぎて、喋れば喋るほど意欲が失う」可能性すらあるから、余計に「表にでてこない」。

 となれば、歴史に立ち返ってみて、客観的にみてみるしか方法がない。

 奈良時代には、災いがあると遷都を行なった。つまり、街ごと移動するし、風水なども含めた計画都市だったし、仏教による宗教都市的な意味合いも多分に重ね合わせていた。

 わざわいあれば(ハレとケ思想)、逃げるという選択肢があったことを物語っている。

 幕府を置くという文化になっても、京都は首都であり、宗教都市でありつづけたし、幕府の置かれた場所は政策都市であり、都市の性格も多重になっていた。また幕府が作った都市は、鎌倉のように防衛都市でもあったし、宿場町、門前町と、いろいろな性格をもった街や都市がいくつもあったように見える。

 また、江戸の大火による、街づくりのリセット機能は、ある意味、経済循環を引き起こしていた。そのことで、街づくりが定期的に考えるきっかけになったし、そもそも土地の私的所有が少なかったことも大きな影響だとは思う。

 こう考えていくと、防災から逃げるという手段をとった時代もあるし、複数の街をもつことで、どちらかがダメになっても肩代わりできそうな多様性もあったし、防災をメリットに活用してきた、不撓不屈の歴史もあるわけです。

 そのなかで、きちんと議論されてこなかったのが、街はずっと続くものなのか、死にゆくこともあるのかです。

 中東などをみていると、砂漠化によって亡くなった古代都市などもありますし、シルクロードの町々のように、経済的な関わりが薄くなって、縮減した街もたくさんあります。

 つまり、歴史で紐解くと、意外と街にも生死があるということです。

 江戸末期3000万人の人口規模から現代の1.2億人まで、3倍に増えたということは、新しく作られた街が多く、歴史も誰かが住んでいたというならそれなりに歴史はあると思うのですが、現在のようなサイズ感の街になったのは、100年以下の歴史かなと思うのです。

 そうなると、人口減少を考えるに、その人口規模に応じた「街のサイズ感」というのがありうるし、いま起きつつあるコンパクトシティ化による中山間地域や離島の無人化は、ある意味、避けて通れないようにも思えます。

 言い換えると、この人口減少そのものをどのように防災するのか。また防災だけでなく、活かすためにはどうすればよいのか。せっかく土地が余るフェーズにうつっているので、どのような街を山岳都市として形成するのかとか、離島都市論みたいなことが議論されてもいいと思うのですが、そこまで議論が進んではいません。

 そういったなかで、僕が着目してきたのは、人工的に作られた宗教コミュニティや理念コミュニティです。いまのところ、宗教コミュニティは古代からあるし(京都やエルサレムなど)一番長く都市として定着しているパターン。しかし、宗教に近いはずの理念コミュニティは新陳代謝が激しく第三世代までうまく維持し得ない(キブツやヤマギシなど)など、興味深いことが多いのです。

 その中で、日本で新興勢力でできた宗教都市として、唯一と言ってもいいぐらい成功しているのが江戸末期から明治にかけて広がった天理教の街「天理市」です。

 ここ数年、街づくり論として天理市のユニークさをおっかけようとしてますが、なかなか手が届かず。

 今度天理市にも言って、街づくりの生死論を考えつつ、平時の防災、非常時の防災論を考えてみたいと思います。

<続く>