「幸福の系譜学」(1)

<「幸福の系譜学」(1)>

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なんとなく「壁」が気になっています。
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 仕事をしていると、多分にいろいろな「壁」に当たる。全ての生みの親は「ひと」。そして、仕事の喜びもおおよそ「ひと」(力量のある人やメディア、あるいは最も近しい人に褒められないと喜びも小さい)。

 ということは、「ひとの歴史」を振り返れば、けっこういろんなことがわかるんじゃないのって思いまして笑
 おおよその問題はケースとしてほぼあっただろうし、技術の速度は異常だけれども、ひとの成長速度はそれほど変わらないのではないかと思うと、たぶん役に立つよねという仮説で、ちょいと進めていきます。

*別のことを書こうとして、いきなり違う話になっていきますけど、ご容赦を(笑 最初のタイトルは、「”ひら”の思想”かん”の思想」でした笑

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スタート地点の問いに戻る
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 人生を振り返ると、いやあ、いいことも悪いこともあります。
「人生楽ありゃ苦もあるさ」と水戸黄門のオープニング曲とおんなじです。けれども、呑気な話でなくて、絶対不幸みたいなものもあるじゃないですか。例えば、最近の事件でもあるような「誰でも良かった理由の通り魔」などの「自分でなくてもいいはずなのに、自分だった」ことなどです。病気だって、健康そのものに人がいきなりだったり、そういった、「なんで私が不幸にならないかんの?」「たまたま私なん?」みたいな運の悪い不幸というのが、僕自身はもっともキツイ不幸の一つではないかと思うのです。
 こういった運の悪い不幸というのは、ほんとうに運が悪かったのか。自分にも何かしら責任があるのではないかという、理由探しを我々は衝動的にやってしまいます。何かしら理由がないと落ち着かないのですね。
 たぶん、大昔の人にとっても、運の悪い不幸のような「不条理なこと」は消化しきれなかったと思うんですね。(不幸の源泉)。いい人だろうが悪い人だろうが、災害がくればみんな苦しむし、悪人の下で働くことや、無残に病気で死ぬこともあったと思うし。
 「ねんでうちやねん」「どうして私のこどもなん?」、数々の不幸はあったはずでして。

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不幸に理由を求める私たち
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 では、どうやったら、どうすれば心が落ち着くのか、前向きになれるのかと考えたときに、たった1つのことに行き着くんですね。
 それは、「なぜそれが起きるのか」が分かる時=解決方法を与えてくれるものですね。
 例えば、宇宙の真理だ(そういうもの)、神が決めたという絶対的理由があれば、それはしょうがないものとして落ち着きます。もう、絶対の存在ですから。

 けれども、宇宙の真理も神もそれを証明する方法がない。言い換えると、信じるしかない。

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不幸をかき消す絶対への願望
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 そうなると、我々はまた落ち着かなくなりますよね。
 振り出しに戻る分けですから。これいちばん、しんどいんです。せっかく考えたのに、やっぱりそこかいって笑

 だから、ここで「あの世」が登場するんです。
 宇宙の真理や神以外で絶対のものって、身近なことですが、「人間は全て死ぬ」というのは、証明されている数少ない絶対。

 また、毎朝出てくる太陽、毎晩出てくる月や星々は絶対的に存在する、圧倒的なもので、これも絶対だろうと。太陽や月の変化で季節が変わるのなら、天体こそ我々を動かしている存在だと。

 そう考えた古代人は「死んだあとの世界」(宗教)と「太陽と月」(占星術)に、運命の起点を求めてきたわけです。

 こう考えると、太陽や月の信仰や「あの世」が登場し、「あの世」での暮らしは、「この世とは異なる仕組み」でできているはず。さらに、神といった世界の創造主が設計しているのだから、絶対かつ間違いのない世界だ。だから、この世の苦しみは、完璧な神が運営する世界「あの世」で全て報われるはずだ。これが「この世の不条理 あの世の理想郷」の構図になるわけです。

 こうやって、ひとは幸福の起点を「あの世」に持っていき、宗教が長く幸福の起点をになってきたわけですけれども、やっぱり、「あの世」はわからんわけです。そこでプラトンが「あの世」研究していくわけなんですが、その後、アリストテレスにあっさり否定されてしまいますし、中世神学の世界(スコラ哲学)も、ずーっと、そういった証明に費やされてきた時代が長かったのです。
 そこに、科学というのが神の証明に手を貸してくれるようになるのです。そう、身の回りをいろいろみていくと、神が設計したと思うような、植物の道官師管の仕組みや、美しさが数的に証明できたり(ピタゴラスの定理とか、フィボナッチ数列とか)と、やればやるほど、神の証明のように思えたわけです。すげーぜ、神^^ってなもので。19世紀までの科学史、とくに錬金術にその姿が顕著ですけれども、宗教と科学は親子みたいな関係だったわけです。

<続く>