いまどきの贈与経済論

<なぜギフトエコノミーなんだろう?>
 最近、街おこし系のキーワードによく出てくる
ギフトエコノミー(贈与経済論)。
 ちょっとぼくなりに整理してみようと思います。
<そもそもだけど。。>
 人類のもっとも偉大な発明の一つは、「貨幣」(共通の
ものさし)だと思います。貨幣があれば、すべて通貨の量で
表現することができます。
 
 けれども、そもそもの話でいうと、人類が作ろうとしてきたのは「共通のものさし」です。これがあれば、お互いに意思が疎通できるし、動きやすいし、生きやすいのです。
 この「共通のものさしを作る」という発想は、宗教(例:キリスト教という考え方で世界を共通の見方にする)もそうであるし、数学(数字で世界を表現する)や言葉といったものもそうですし、科学というのも同じロジックのものだと思います。
 また、これまでの人類の発展というのは、このより説明力の高い、あるいは説得力のある「共通のものさし」どうしの戦いであったり、「共通のものさし」を押し広げていく戦いでもあったといえるでしょう。
 そのようななかで、貨幣経済は、科学と同様に、もっとも優秀な「共通のものさし」です。
 
 ところが、この貨幣経済ですが、資本主義という形をとることによって大きな問題点を生じました。
 
 それは資本主義が発展すればするほど、富める者と貧する者に分かれるということです。
 そして富める者はその富を教育や財産を通じて「譲渡」が可能になり、「さらに富める者」を生むことができます。
 逆に、貧する者は、富がないゆえに、教育や財産を通じて「譲渡」するものがなく、また譲渡できないゆえに貧が再生産されやすくなります。
 この結果、資本主義という「共通のものさし」は、戦争や政治権力といった「力」よりも、巧妙に、人の幸福に影響を与えるようになりました。
 さらに、資本主義の発展は、家族4人で1台の電話を使うという状態よりも、家族4人で4台以上の携帯電話を使ってもらうほうが望ましい状態と考えるので、一人一人の消費をめい一杯つかわせるほうに動いていきます。1人1人の消費以上に集団で使えるように(例えば、スポーツ観戦でいうと、球場などで実際にみるのと、テレビで個々が見るのが両方なりたつように)動きます。
 すると、お金を一人一人が最大限に使えるように、お金を使う環境は出来上がるので、一人でなにもかも行うのが「心地よい状態」を作ろうと工夫してきます。
 それがいまの我々の社会が到達した状態です。
 例えば、見たいときにテレビも映画も見れるし、ネットでいつでも物が買える。
 こういう「自分のスタイルにあわせた消費がいつでもどこでもできる」というのがまさに資本主義が目指した到達点です。
 ところが、この資本主義の到達(共通の物差しがいきわたった状態)になって、どうもこの到達点が新たな動きを引き出しています。
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岡田斗司夫インタビュー
(「週刊東洋経済」4月7日号(2012年4月2日発売)
――若者に貨幣離れが起こっているのか。
起こっている。かつては、やる気もあって、社会にもの申す若い人というのは、カネ儲けをして、成功しようというのが一般的だった。しかし、最近の気の利く若い人は、そこを回避している。
 例えば最近、人事のコンサル会社の人と話す機会があった。
その人は、「最近の若手社員は、おカネを稼いで、いい暮らしをするという発想がない。アメとムチでは動かない。動機が違う。彼らは平気で土日も会社に来ない」と言っていた。
実際、最近の若い人たちは、ボランティアに走る傾向もある。
つまり、やる気はあって働くのだけど、自分の楽しみのために使わない。それは、若い人たちに言わせれば、会社でおカネ稼いでも、そのおカネで楽しみに使うのだったら意味がない、ということ。おカネを使わないと、自分の楽しみを実現できないというのは、ネット社会ではすでにヘタクソな生き方になっている。
 若い人たちは、コストをかけずに、社会から楽しみを受けることができるというのを既に知っている。
かつては、おカネがあったら、家にシアタールームを作り、いい音響で大画面でDVDを見放題というのが最高の贅沢だった。
でも今やスマホでユーチューブを見たほうが、ソフトとして豊か。
これはもう、おカネを使う価値が「上げ止まり」となっている証拠。
引用 http://blog.freeex.jp/archives/51322180.html
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 こうなると、労働して貨幣を手にし、貨幣を使って「ものを得る」という一連の流れに新しい動きが出てきます。
 労働して得たもの(自分で作った農産物や小物など)、労働して得られるもの(ボランティアで美しくなった場所とか、そのことで得られた感動など)そのものを「共通のものさし」にして、交換を行おうとする人たちが多く出てきました。
 つまり、「貨幣=誰かが作ったものさし」をより使わずに、「自分が作ったものさし」による交換をちょっとずつ増やそうとしている人たちが増えています。
 田舎に来て、自分の作ったキャベツやなすやトマトを交換する。自分たちの街づくりのために「自分の時間」を提供し、変わりゆく街の姿を見て、楽しむ。あるいは、祭りのように、自分たちが演じ、踊り、賞賛を得たり、一体感を味わうことで幸福を感じる。
 そういった「自分がかかわることできる共通のものさし」の交換行為によって幸福を感じる人々が行っていることを、僕自身は「新しい贈与経済」と考えています。 
 *過去の贈与経済論では返報性の原理による交換が動機要因だったとしていますが、現代の動きは過去の贈与経済とは動機要因が変わっているので別物だと考えます。
 *参照 贈与経済とは?
  https://www.philosophyguides.org/…/mauss-don-super-compact…/
 
 こういった新しい「自分のかかわる共通のものさし」を作ったりかかわったりすることによる幸福感が、どうやら、資本主義が強すぎる都会よりも田舎のほうで作りやすいのではないか。言い換えれば、資本主義の影響が強すぎる都会の人のほうが、この「自分のかかわる共通のものさし」に対する感度は高く、そういった人が田舎に来ると、より幸福度が上がるのではないか。
そういうふうにもとらえることができるのです。
<続く>