幸福の消費者になれば、自分探しを止められない

ここ最近思うんです。

結局、「何かをしなくちゃいけない」けれども、「何をしていいのかわからない」人達が異様に多いということ。

これ、どうしてこうなっちゃったんだろうと思ってたんです。

よくよく考えてみると、幸福を作った経験がなくて、幸福になる、快楽になることを与えられ続けた、ないしは消費してきた人がなる「やまい」なんだろうと。

自分で幸せを作れる人って、結局、「自分が何が好きかということを知っている人」だと思うんです。

ただ、高度に成熟した経済社会では、その「好きなこと」を他者が作ってくれている場合が多いんです。

ビールが好き。呑むのは好きだけど、自分で作って呑もうとまでは思わない。これも消費。 服が好き。着るのは好きだけど、自分で作って着ようとまでは思わない。これも消費。・・・・

と続けていくと、けっこう幸せを感じさせてくれるものは誰かが作ってくれているものが多いんですね。

ということは、高度経済社会って、「幸福を与えてくれる社会」なはずなんですけど、結局、作ってないんで、「幸福消費社会」なんですね。

もし幸福になることが、好きな事をしている時とするならば、クリエイティブと同義なんですよね。

何かを創造しているときが一番楽しいはずなんです。

料理しかり。 大工しかり。 農業しかり。

だから、作ると幸せになるんです。*作りすぎると、嫌いになりますけどね笑

ボクは日々幸せなんです。

体調が悪くなり、いろいろなイライラすることも出てきたりもします。思い通りにいかないです。

けれども、それを解決していく。

このプロセスが、楽しくてしょうがないんです。

生きるのは苦だからこその、幸福なんです。

解決したい、せざるをえない課題(苦)が目の前にあるからこそ、「生きる手触り」を感じられると思うのです。苦しいことせずに、手間のかかることをせずに楽して幸せになろうとするから、「幸福の消費者」から抜け出せないのだと思うのです。

仏教は苦しみから抜け出そうと無我に行き着いたと思うんですが、ボクは、苦しみとつきあって、生きる証を得られるからこそ、幸せの価値が見えてくると思うのです。

無我になる必要はないと思うのです。

欲望があっていいのだと思うのです。

幸福になりたい欲まで捨てることが、宗教の答えではないでしょうし、死んだ後にしか幸せが来ないという立証不可能なものも、役に立たないと思うのです。

この世でこそ、幸福を感じられるかどうか。

ここじゃないでしょうか。

いろいろなことがやりたくてしょうがない。

そんな感じです。