<勉強まとめ④街づくりの主語問題ーデザインはだれが?ー>

 

 さて、問題は、だれが「街づくりのデザインを行うか」という話です。

 木下論でいえば、少数精鋭を利害調整の難しさをもとにお勧めしています。僕自身も、この考え方に近く、少数精鋭で練りこんで提案をだし、住民の人と練りこみ、最後は投票(ネットでいいと思います)してもらう(一回一回首長の選挙をやるのは税金の無駄なので)のが理想なんですが、みんながみんな公共性の観点から考えているとはいいがたいですし、住民(その時だけ住んでいる)が決定することに関しても、西部邁氏の論ではありませんが、過去の住民(が作り上げた文化)と未来の住民(禍根を残さない、未来のためになるもの)との対話によって決める姿勢を持たねば、意味がありません。
 悪い事例でいえば、杉だらけの山林、FCだらけの郊外の風景を見てくれたらいいように、地元住民だから最適解をうみだすとは到底言えません。逆に外部の専門家だから最適解をうめるかといえばまた別で、いろいろ大企業の提案などを聞いていても、アメリカや日本の先進地域の焼き直しに過ぎず、<成功事例のパッチワーク>に過ぎないことも多々あります。

 そういった意味で、内部と外部の相乗効果を狙うしかないのですが、内部を大事にしすぎたものも、うまくいけばいくほど利害が生まれるので、どこかで衝突のほうが先立ち始めるし、誰かが街づくりで得し続けたり、損し続けたりすると、一気に崩れていきます。

 例えば、街づくりの先進地域と呼ばれるところは、志の高い先達のおかげで創造的環境が保たれていますが、うまく続けば続くほど利害衝突が起きやすくなります。いつも危機意識があるからこそ創造的なんだけれども、うまくいけばいくほど非創造的になっていきます。*街づくりは、うまくいっちゃいけないんです笑

 だからこそ、先進地域はどこも街づくりの担い手層が一番危機意識を持ち、そうならないように持続可能な発展を遂げている証左でもあるのですが。
 
 また、外部に依存するのも悪い方で例えれば、つねに良薬を求め、即効性の高い効果を期待する<専門家依存ジャンキー>になっていく場合もあります。これはとどまるところ、<信念なき専門家利用>であり、専門家を利用する立場にいなくては、街づくりの主語は住民から失われていきます。

 そういった大きな課題を考えつつ、いつも悩みまくっているというのが正直なところです。

 <続く>