<要約の時代の問題~リアル感のぶれ、信頼の問題>

ここひとしきりgoogleをよく使っていますが、
検索エンジンがよく出来すぎていて、一人ひとり用に
カスタマイズされることで、見ている情報が各自バラバラ
で、本当に正しい検索結果がわかりにくいことがあります。

 例えば、シェアカフェで検索したとき、自分のPCで
みると、検索一位。マンガ喫茶で見ると、検索2位か
3位なんてこともあって、自分の見ている検索内容が
ほかの人とは異なることが当たり前になっています。

これと同じような問題がありまして。
フェイスブックを毎日見ていると、このフェイスブックの
出来事や関心事の高さが、「自分にとっての現実」なので
すが、巷の感覚とは「ずれている」こともよくあります。
*地方創生系の関心事の高さと、巷での商店街での
「どうでもいい感じ」「勝ち抜けて、どうする気もない
感じ」との違和感などなど。

ニュースもそういえば、短縮されてまとまっていて
原典にあたることもないですし、2chねるも、まとめ板
読めばいいようになっていますし、すべてのことが、
「要約」されている時代だなと。

地方創生も、コンパクトシティ化が目指されていますが
これも、「街の要約」という現象だと思うのです。

しかし、この「要約」というのは、「要約する人・OS
への信頼」がベースになっているものなのですが、この
信頼が非常に揺らいでいると思うのです。

最初に戻りますが、自分の考えや趣向にあった「要約」
を選んでいるうちに、検索エンジンによって、より純化
された「情報選別の要約」が進み、それが現実に。

純化された「自分にとっての現実」は、相手との「現実」に
対して、攻撃性を帯びていく。

その攻撃性を高めるために、ますます要約された「刺激的な情報」がメディア・ネットによって流され、より「対立」を深める。

傍観している「中立な人」も、一つ一つ丁寧に情報の
原典を見て回ることができなくなり、どれを信用していいのかわからなく、どこまでいっても、心から納得した意味での判断は
しづらくなり、「躊躇された意思決定」しかできなくなってくる。

その結果何が起こるか。

「大勢が決まるまで、何もしない」というリスク回避の
行動が主を占め、「勝ち馬に早く乗る」ことが主眼となります。

そうなると、すべての事柄が、「勝ち馬のマネ」となり
平準化していく。

個性的であらねばならないはずなのに、「要約の時代」は
平準化していく「模倣の時代」となっていく。

ならば、目指すべきは「個性的な模倣」。

模倣することで個性化していくアプローチ。

そんなことをふと朝、思いました。