研究への想い

<思考の輪廻を超えて>
 今年は、ほんとに北から南まで久しぶりにたくさんの地域や都市に出向き、肌感覚で街を感じてきました。
 そこで感じたこと、まちづくりへの疑問、自分がプレイヤーでやっているところから感じる重たさ、東京で話すときの軽さとお金の強さなどなど。
 諸々の思いを少し言葉で表現してみます。

”やっぱり同じ問題だった”

 産業のプロダクトサイクルのように、街づくりにも、同じように、黎明期・成長期・成熟期・衰退期の4つが大まかにあります。街づくりが純粋に面白いのは、「黎明期から成長期の間」、この”一瞬”にあります。黎明期は、イノベーターが一生懸命やるもののブレイクスルーのポイントが見えず、やきもきすることが多いし、出口が見えない苦しさがあります。イベントをやれども、体力ゲージも知識ゲージもロスしていく(イメージ ドラクエ)感じがあります。出口が見えないときに、一瞬の光明が見えた瞬間(これだなという手応えを共感者の増加などの現象増加で裏づけさせ始める)、ここからメディアが取り上げ、口コミが増え、一気に”開けていく”時を迎えます。例えば、神山町での空き家のリノベから偶然生まれた「サテライトオフィス」、海士町の「CAS」「高校魅力化」などがあげられるのだろうと思います。
 この成長期は、目先の課題を次々紐解いていくだけで、とんでもない熱量が生まれるし、次なる課題が見えて、どんどん成果が出始めます。だから、その熱量に引かれ、多くの人が集まってきます。そして、この熱量を体現する「カリスマ」が誕生します。カリスマが方向性を示し、カリスマとともにがんばる仲間たちが必死に具現化し、周りを鼓舞し、人々が熱狂のファンとなって集まり始める。これが”街づくりの狂騒場面”で、これを一度でも体験すると、もうやめられません。こういった熱量体験は、スポーツやスタートアップではよくみられる光景の一つでもありますが、不動産によって変わりゆく町並みと違い、自らの手で変わりゆく街の様変わりは、街づくりの担い手を興奮させます。このカオスのような時期、これは全てのプロジェクトにもいえることで、とても面白いイノベーティブな文化に包まれ、一体感があります。
 
 しかし、しかししかし。

 このほんの一瞬の”成長期バブル”を超えると、一気にまちづくりの課題難度があがります。まるで、トリプルアクセルを4回しろ、みたいな課題です。それでいて、スケートが芸術点を求められるように、街づくりには常に”美しい物語”が暗黙的に要求されます。例えば、たまたま原発ができて街の人口増がうまくいったみたいな話を望まないわけです。原発という主産業が街にできたとしても、それはみんなの思っている”街づくり”ではないし、もっというならば、自動車産業による企業城下町を”まちづくりの成功事例としてはみない”という現実があります。
 つまり、経済的にも道徳的にも満たされた目的やアプローチなしには、街づくりというのは必要十分条件とはいわれないわけです。

 さて、この高い課題の壁を迎える成熟期では、衰退期に落ちないためのイノベーションが求められたり、根本的な問いに晒されます。

 例えば、ボクのいる上勝では、高校がないゆえに、移住すれども出ていってしまいやすいという構造的課題があります。すると、高校を作らねば課題解決にならないし、そこを越えれば大学でもでていくから、それも必要だ。もちろん親にも仕事が必要だ。。。仕事さらに作らねばということで、難度の高い課題の連鎖が止まらなくなるわけです。
 すると、自治体の生存競争のために、小さな街といえども都市と同じようなハードを求めざるをえないのです。ですので、地方創生の根本的な宿痾として、競争のためには一定のインフラの魅力が必要なのです。

 さらに、成長期を迎えた街は、成長期を迎えるだけの成功を手にしていますから、その成功ネタを成功であり続けさせようと執着し始めます。そして、美しい物語の大本営放送をしなくてはいけなくなるという「成長神話・成功神話」に囚われ始めます。そうなると、イノベーションを生むよりも、成功したものを太くさせる(フォロワーが失敗しないですむし、大義名分がつく)ほうに徐々に徐々に進行していくわけです。そうなると、小さな投資よりも、大きな成功に投資する方を好み始めますから、”寄らば大樹の陰”になっていきます。これって、まさに「イノベーションのジレンマ」で、成熟期の課題とは、イノベーションそのものがなかなか生まれてこないし、イノベーションを結果的に潰すことにつながってくるのです。
 
 このイノベーションのジレンマが大きな壁になります。やらなくちゃいけないのに、このジレンマを抜け出せない。そして、このジレンマを強化しているのが、自治体であることが多いし、イノベーションのふりをするモノマネ政策で、混沌とするわけです。
 こういった人的壁が、さらに課題を困難にし、あらゆるところで”ミゾ(分断)”が起きだすのです。

 この分断が、せっかくの思いをもってきた若者(特に移住インテリ層)にとって、非常に”無駄な壁”に見えてしょうがないわけです。危機が迫っているのに、変わろうとしない姿勢はまさに”老害”であり、街づくりを後退させる大きな壁になっているように思うのです。さらには、その壁が移住インテリ層に根深い絶望を惹き起こさせるのは、個人としては「みんないい人」だからなのです。誰かを悪者にしない「いい人の集団的意思決定」が、実は未来の街の機会損失を生み出し、いい人だらけになると(誰も傷をつけない、コミュニケーションのある幸せな街がゴールであるならば、いい人の集合体はいいはずなのに)、街づくりが急速に失速するという「個としての善者は、集団として愚者化する」が常態化し、「善者が担い手を駆逐する」ようになるのです。

 これって、まさに大きな組織で起こりやすい組織弊害の代表例で、せっかく大都市からそういったものがいやで、自由な地方にきたのに、やっぱり「その課題かよ」というのに直面するわけです。

 結局、都会も田舎も人間関係でいうと一緒じゃん、という「思考の輪廻」に出会うわけです。言い換えると、人生ゲームで最初のスタート地点に戻らされるような体感です。
 
 そうなると、同じ課題に苦しむのなら、知のインプットも選択肢も多い大都市の方がよくないか、せっかく給料下がってでもきたのに、自己成長は止まるし、選択肢もないし、「振り出しに戻る」はとてもではないけれども、アウトローにとって、クリエイティブを望んでいるものにとって、何よりの苦痛だと思うのです。

 このアウトローの振り出し現象が、僕の中では、ちょっとしたざわざわ感を半年前から生んでいるわけです。