《概念探究学習法に思いをはせる》 

20年以上前に学んだ内容がバカロレアとして復活したり、ジグソー学習法として盛んになったり。あの頃の猛勉強が未だに役にたっていることを思いつつ、言葉は変えるものの、結局、教育史や授業論の蓄積を活かしきれていない、というか進歩の遅い教育のスピードにもいらだちも覚えつつ。最近思うのが、もう一度最初の指導要領が掲げていた問題解決学習法が、まさにソーシャルデザインだなと感じます。戦後の、生活そのものの地域課題に取り組むという問題解決学習から、人口減少による新たな街のデザインをするというプロセスは、ネオ問題解決学習の予感を感じさせます。

<お勧めの本>『サピエンス全史』

 人類史を振り返って、文明のこと、これからどう進むべきかを考えるのに、お勧めの本。ちょっと同じことを繰り返しいうところとか、詳しく書いているようで、推論でしかないところも、かなり上巻(どうしてもホモサピエンスの前文明時代のことが内容として多いので)は見受けられますか、歴史を俯瞰した視点を得るには面白いと思います。
https://www.amazon.co.jp/…/B01LW7JZ…/ref=dp-kindle-redirect…

<スガシカオ「午後のパレード」と地域再生の課題>

 最近地域再生の課題をいろいろ考えるなかで、2006年のアルバム「parade」のラスト「午後のパレード」を思い出します。   
◎動画 https://www.youtube.com/watch?v=xzPfu2VnKXw
◎「午後のパレード」の歌詞
 http://j-lyric.net/artist/a000655/l0091fc.html

 街づくりの黎明期から成長期にかけて、祭りのように楽しく、何か楽しい未来が続いてくれそうな、そんな狂騒に耽ることができます。が、急激な成長期の中で、第一世代の移住者と第二世代以降のn世代の移住者との距離感が生まれてきます。いつのまにか、地域住民と第一世代の移住者の間で生まれた「祭りの一体感」みたいなものが、見知らぬ顔のn世代の移住者の思う、そして作ろうとする「n人が思う街の理想像」とずれがどんどん生まれたり。

 本来、「n人が思う街の理想像」というのが常態なはずですが、街づくり黎明期から成長期にかけて生み出された「街の理想像」が魅力を生み、一体感が生まれたが故に、のちに入ってくる人との間に生じる「バラバラ感」。

 このずれを修正できる社会装置というか仕組みをもって、成熟期に向かわないと、このずれが「しらけ」を生み出したり、個々の街づくりの小宇宙がたくさんできることで、街づくりの一体感が薄まりやすいことが起きます。
 
 とはいえ、このずれが「多様性」であり、「n人の描く街づくり」こそがクリエイティブの証でもあるように思います。が、この多様性に耐えられないのは、「一体感=祭り」が一瞬のきらめきであるということへの認識ができてないことから生まれるものかもしれないなと思っています。
 
 そこで、この祭りの高揚感を得ようと「祭り=イベント」を誰もがやりたがるわけなのですが、すべての人が参加しなければならないもの、「n人を束ねるもの」でなければ「祭り」ではありませんん。だから、祭りでない祭りが繰り返し行われることになるんですが、結果的に、それぞれの街づくり小集団での祭りになるので、より互いの溝を深める結果になっていきます。

 しかし、これが都市化というか、人口が増えていく現象なのだととらえているので、ボク自身は「バラバラ=常態」というふうにとらえています。

 そして、この「バラバラ感」を肯定的にとらえて、お互いの「街づくり小集団」がともに意識しあい、狂騒だけでなく共創できる関係性につなげていく。

 このマネジメントが「街づくりのかなめ」になってくると思っています。この仕組みがなければ、街づくりは持続可能なものになりません。
 
 こんな思いを、いつも「午後のパレード」を聞きながら、歌詞を聞きながら、考えてしまいます。